篠原訓夫《しのはらくにお》は病棟勤務を終え、臨床研究棟の五階にある第一外科の医局に戻った。エレベーターを降り、右手に進み、つきあたりにある医局のドアを開ける。肩を揉《も》みながら人気のない部屋の中を横断し、自分のデスクへと向かった。実験台を通り過ぎるときに目をやると、その上に置いてあるデジタル時計が五時半を示していた。
デスクの上には秘書の書いたメモがふたつ置かれていた。コピーを頼んでいた学術文献が見つからなかったこと、製薬会社の営業が訪ねてきたことが記されていた。
篠原は白衣の胸ポケットから手帳を取り出し、デスクの上に放った。そして再び肩を軽く揉み、凝りをほぐした。最近、病棟から帰ったあとはこのような動作を無意識のうちにしてしまうことが多くなっていた。だいたい病棟と医局の間が遠すぎる、そう独り言をいって、それから少し恥ずかしさを覚え、篠原はあたりを見回した。
珍しいことに、部屋の中には篠原の他には誰もいなかった。いつもなら若い研究生が一人くらいは実験をしているのだ。今日は少し早めに食事に出掛けたのかもしれなかった。
篠原はインスタントコーヒーを滝れ、マグカップを手にデスクに座った。手帳を開き、予定を書き込もうとしたとき、部屋の電話が鳴った。内線電話の呼び出し音ではない。外部からかかってきたことを示す鈍い電子音だった。篠原はカップを持ったまま立ち上がり、電話のほうへと歩いていった。そしてコーヒーを一口啜《すす》ってから受話器を取り、もしもし、第一外科ですが、と答えた。
「……こちら、薬学部の……」
「なんだ、永島さんじゃないですか」
篠原は笑みを浮かべ、見えない相手に向かってひょこりと頭を下げた。
利明との付き合いは、篠原が博士号を取得するために利明の所属する生体機能薬学講座へ研究生として出向いたときから始まっていた。医学部の学生は、単に卒業して医師国家試験に合格するだけでは医学博士になることはできない。ある程度の期間医局に残り、実験をおこない、論文を書く。そして審査を受け、ようやく博士の肩書を得ることができる。当時二十九歳だった篠原は、博士号を取ろうと必死になっていた。先輩からまわされる夜勤でふらふらになりながらも、薬学部へ通って細胞培養を続けていたのだった。篠原の与えられたテーマは、肝細胞の癌化に伴う癌遺伝子産物の発現量を測定することだった。ラットの肝臓を摘出し、そこから細胞を回収して初期継代培養《プライマリー・カルチヤー》をおこなう。この時点では普通の肝細胞だが、これに発癌剤を与え、細胞の癌化を促進させてやる。その際、細胞表面に現れる幾つかのタンパク質をモニターし、その発現量と癌の進行にどのような関係があるかを調べるというものであった。ありふれたテーマだが、篠原が測定した癌遺伝子産物は当時まだあまり研究の進んでいないタンパク質であったため、博士号の対象となったのである。そのタンパク質を認識する抗体を作製したのが、利明の所属する講座の助教授だったのだ。
利明は当時まだ大学院生で、しかも癌遺伝子が直接の研究テーマではなかったが、ラットの肝細胞のプライマリー・カルチャーを日常的におこなっており、その技術に長《た》けていたので、篠原は利明によく手技を教わった。組織染色や流動細胞光度測定法《フローサイトメトリー》も利明に習った。篠原は二年間研究生を続けたのち医学部へ戻り、その翌年なんとか博士号を取ることができた。だがそのまま利明との付き合いは続いており、時折り誘い合って飲みに出たりしている。年齢は少し離れていたが、互いにさん付けで呼びあっていた。
篠原は受話器を耳に当てながらコーヒーを喉に流し込んだ。また飲む相談かと苦笑したが、その直後、相手の様子がおかしいことに気づいた。回線の向こうから、斜めに歪《ゆが》んだような陣《うめ》き声が聞こえてきた。混線しているのだろうか、と一瞬篠原は眉《まゆ》をしかめ、フックを何度か押してみた。だが奇妙な感覚は直らなかった。利明はなかなか話し出そうとはしなかった。長い沈黙があった。コーヒーの白い湯気が渦を巻いて立ちのばってゆく。耐えられなくなって篠原がなにか話しかけようと口を開いたとき、不意に受話器の向こうから低い声が聞こえてきた。
「聖美が死んだんです」
篠原の背筋に冷たいものが閃《はし》った。
思わず誰もいない室内を見回した。蛍光灯が突然ぺかぺかと明滅した。だがそれはすぐに輝きを取り戻し、デスクや床の上に影を落とした。電子のひとつひとつが床に降り注いでくる、サーとノイズのような音を立てて落ちてくる、自分の頭の上にも積もってゆく、そんな妄想《もうそう》が頭の中を過《よぎ》った。
「……なんだって?」
自分でも驚くほどの大声が口から出た。唾《つば》の飛沫《しぶき》がふたつ、弧を描いて落ちてゆくのが見えた。
「でも聖美は生きています」
「おい……」
「篠原さん、聖美の肝細胞を取ってください。ばくは医者ではないから聖美を捌《さば》くことはできない。しかし篠原さんなら問題はない。そうですね」
「聖美さん? いったい聖美さんがどうしたっていうんだ?」
「いまからそこへ行きます。聖美の肝を取ってくれますね」
「どういうことなんだ、いまどこにいる」
「すぐに行きます」
電話が切れた。
しばらく篠原は受話器を握り締めたまま呆然《ぼうぜん》とその場に立ち尽くしていた。何が起こったのか理解できなかった。ただひとついえることは、永島利明の声が普通ではなかったということだ。
すぐ行きます、という利明の言葉を思い出し、篠原はきょろきょろと辺りに目をやった。ここに来るということなのだろうか。電話は外線だった。いったい利明はどこにいるのだろう。
そのときだった。電話が切れてから一分と経っていなかった。真後ろにある扉が開いた。びくりとして篠原は振り返った。
利明が立っていた。薄笑いを浮かべている。
篠原の手からすベり落ちたカップが砕け散った。