電話がかかってきたとき、安斉麻理子《あんざいまりこ》は自分の部屋で机に向かい数学の問題に専念していた。ラジカセに好きな女性シンガーのテープをセットし、音量を絞ってBGMに流していた。中学校のクラスの友達にダビングしてもらったものだ。宿題に出された図形問題は意外と難しかったが、数学は好きな分野なので飽きることはなかった。ちょうど補助線の引き方がわかったところで電話の音が聞こえてきた。
「はいはい」
思考が中断されたことに対する軽い苛立ちをそんなふうに言葉に出して、麻理子は立ち上がり、廊下に出た。
廊下に掛かっている時計を見やると、八時二〇分を指していた。一歩部屋の外へ出ると、家の中はあまりにも静かで、冷たかった。まだこの時間では父は帰って来ない。いつも十一時を過ぎるのが普通だった。部長になってからずっとこんな調子だ。仕事が忙しい、いつもそういっていた。だが麻理子は本当の理由を知っていた。あたしの顔を見る時間を減らしたいだけなのだ。
麻理子が足を踏み出すごとに、ぺたぺたとスリッパの音が響く。それに電話の電子音が重なる。この家にはふたつの音しか存在しないようだった。
麻理子は無造作に受話器を取り、もしもし? とぶっきらぼうにいった。
「私、移植コーディネーターの織田と申します。突然の連絡で申し訳ありませんが、安斉重徳《しげのり》さんはいらっしゃいますでしょうか」
はっとして、麻理子は大きく息を呑んだ。反射的に自分の左の手首に視線を落とす。トレーナーの袖《そで》がめくれて、穿刺《せんし》のための穴が見えた。それより下には、袖に隠れてはいるがもうひとつ穴が開いている。ふたつの穴が突然疹《うず》いた。
「父はまだ帰ってきていませんが……」
麻理子はたどたどしい口調で答えた。
「失礼ですが、麻理子さんでいらっしゃいますか?」
「え、ええ、そうです」
「そうですか。実はご希望の腎移植のためのドナーが見つかったので連絡を差し上げたんです」
心臓が激しく鳴りはじめた。腎移植。その言葉が麻理子の背骨を走っていった。鳥肌が立った。
前回の腎を摘出してから、麻理子は父親に強引に薦められて死体腎の移植希望登録を出していた。あれから一年半しか経っていない。あまりにも早いような気がした。一気に麻理子の記憶はこの一年半を湖《さかのぼ》っていった。
「死体腎はほとんど出ないんだ。だから我慢して待たなきゃだめだよ」
あのとき、吉住《よしずみ》という医者はそういって、まだ小学生だった麻理子の頭を撫《な》でてくれた。だが麻理子にはそんな言葉は意味がなかった。移植など二度とするつもりはなかったのだ。ただ父親の顔を立てるためだけの登録だったのだから。
父親は吉住先生のその言葉を聞いて、不安げに質問していた。
「待つというと……、どのくらいなんでしょうか」
「はっきりとしたことは私にもわかりません。東京近辺にある大きな病院では、年間十件以上の死体腎移植をおこなっているところも幾つかあります。しかしそれは東京のほうがドナーが多く出るからで、こちらでは残念ながら年に一件か二件といったところです。ご存じのとおり、日本では脳死といった概念が社会で受け入れられていませんから、どうしても心臓死者からの腎の提供を待つことになります。しかしドナーとして適当な心臓死者の数が少ないのに加えて、新鮮な腎を摘出することが実際上困難なことが多いこともあって、提供腎の絶対数が極めて少ないのです。麻理子さんの体に合う腎が見つかるかどうかも問題です。登録の順番もあります。いい腎臓がほかの地域で見つかればシッピングしてもらうこともできますが、それでも五年や十年は待っている患者さんは少なくありませんよ」
「十年……」
絶望的な表情をした父親の姿が今でも目に浮かんでくる。
「今回の腎がうまく生着すればよかったのですが……」
吉住先生は苦渋の声を出した。それを聞いて、麻理子は俯《うつむ》き、唇を噛んだ。
みんな、あたしのせいだと思っているんだ。
あたしがいうことをきかなかったから、手術が失敗したと思っているんだ。みんなうわべは優しい顔をしているけれど、本当はあたしのことを張り倒したいくらい憎らしく思っているんだ。
なんにもわかっていないくせに。
「最近、なにか病気にかかったことはありますか。風邪はどうかな?」
電話の相手は麻理子の体の具合を訊《き》き出し始めた。麻理子は、ありません、ひいてません、とつっけんどんに返事をしていった。その間、麻理子は左手を胸に押し付け、どきどきと大きな音を立てる心臓を抑えようと懸命になっていた。本当に自分はまた移植をすることになるのだろうか。それも今度は父親の腎ではない、まるきり知らない人の死体から取った腎を。
突然、死体、という言葉がずんと音を立てて体の中心に沈んだ。
理科の実習でやったフナの解剖や、道路の端に転がっている轢《ひ》かれた猫の姿が脳裏をよぎった。
死体の腎臓が、死んだ人間から取り出した腎臓が自分の体の中に入る。
凄《すさ》まじい寒気が全身を駆け抜けた。
いやだ。
移植なんてやりたくない。
そんな麻理子におかまいなく、電話の相手は早口に尋ねてきた。
「お父さんがお仕事から帰ってくるのはいつくらいかわかりますか」
「さ、さあ……。いつも遅いから」
「お父さんが帰ってきたら、至急電話をくれるようにいってください。もし連絡がつくようだったらすぐに相談して、移植を受けるかどうか決めてください。連絡が遅れるようであれば次の候補の方に腎臓を提供することになってしまうんです。なるべくはやくお願いしますね」
安斉重徳が家に帰ってきたのは十一時を回っていた。安斉の所属する部署では来年度の新型ワードプロセッサの発売に向けて追い込みにかかっていた。ここ数週間の問、休日もゆったりとした気持ちに浸ることができない。もっとも、仕事のことを第一に考えてしまうのは若いときからの悪い癖だった。
玄関の鍵を開け、中に入ると、電気が消えていた。不思議に思いながら安斉は廊下の電気を点け、靴箱に目をやった。麻理子は帰っている。普段は廊下の電気を点けっ放しにしてあるのに、なぜ今日に限って消してあるのかわからなかった。
安斉はネクタイを緩めながら台所にゆき、冷蔵庫の中からハムと缶ビールを取り出した。八ムを口にくわえながら居間への戸を開ける。床に腰を下ろしてテレビのリモコンを操作した。深夜ニュースが南米で起きた飛行機の墜落事故を流していた。
事故の映像を見ながら、最近麻理子と顔を合わさなくなったなと安斉は思った。まだ麻理子は起きているはずだが、わざわざ部屋まで行って声をかけるようなことはしなくなっていた。朝もお互い忙しく、ろくに言葉を交わすことはない。食事も別々だ。しかしそれが習慣になってしまっている。恐らく、麻理子が大学に入るまではこの状況が続くのだろう。安斉はビールを岬《あお》った。
それから二〇分ほどしてニュースが終わった。そろそろ持ち帰ってきた書類に目を通さなければならない。安斉はテレビのスイッチを切り、背伸びをした。そのときだった。
「お父さん」
不意に後ろから呼ばれ、安斉はぎくりとして振り返った。パジャマ姿の麻理子が立っていた。どことなく目のまわりが腫《は》れぼったいのがわかった。
「なんだ……、どうしたんだ」
「………」
麻理子はなかなか話し出そうとしなかった。はっきりしない娘の態度にすこし苛立ちを覚えながら安斉はいった。
「夕食は取ったんだろう、まだ何か欲しいのか。夜食は止めたほうがいいぞ」
「……さっき、電話があって……」
麻理子の思い詰めたような雰囲気を察し、安斉はビールの缶をテーブルに置き、立ち上がった。
「電話って……病院からか。いつもの透析の先生か?」
「違う……。移植コー……なんとかっていう人から」
移植。安斉は息を呑んだ。
「どんな電話だったんだ。話を聞いたんだろう? いつかかってきた」
「八時半くらい……」
「なんでそれを早くいわないんだ」
安斉は舌打ちをして電話に駆け寄った。麻理子からなんとか電話番号を聞き出し、それをプッシュする。移植の順番が回ってきたのだろうか。それしか考えられなかった。なぜ麻理子はぐずぐずしていたのだろう。
すぐに目的の相手が電話口に出た。やはり麻理子への提供腎が見つかったとの知らせだった。
「移植をお受けになりますか?」
「もちろんです! お願いします」安斉は興奮していった。
コーディネーターの女性は簡潔に要件を伝えはじめた。すぐに病院へ来てほしいという。検査の結果が良好ならば、ドナーの心停止を待って移植をおこなうとのことだった。
声を弾ませながら安斉は礼をいい、電話を切った。
「麻理子、移植が受けられるぞ! こんなに早く見つかるなんて思ってもみなかった。これでまたうまい食事ができるようになるぞ」
安斉は笑みを浮かべながら麻理子を見た。しかし、麻理子は青ざめた顔で震えていた。かすかに首を横にふり、いやいやをしている。安斉は喉まで出かかった歓声を呑み込み、麻理子のほうに手を伸ばした。
「どうした、麻理子? 移植を受けられるんだぞ、嬉しくないのか」
「……いや」
掠《かす》れるような声で麻理子がいった。安斉にはわけがわからなかった。
「いったいどうしたんだ。もう透析をしなくてもよくなるんだ。前の移植のときだって、あんなに喜んでいたじゃないか」
安斉の手を麻理子が振り払った。
「いや! 移植なんていや!」
安斉は狼狽《ろうばい》して麻理子のほうに歩み寄った。だが麻理子はその分だけ後じさりをする。麻理子の目に涙が浮かんでいるのがわかった。しゃくりあげを始めている。明らかに麻理子は気が動転していた。突然の移植の話に戸惑っているのだ。どうやってなだめたらいいのかわからなかった。
「……麻理子」
麻理子は壁までさがり、がくがくと膝《ひざ》を震わせながら絶叫した。
「あたしはフランケンシュタインじゃない、お化けになんかなりたくない!」