腎の摘出が終わるとすぐに、篠原訓夫は肝の灌流に取りかかった。
二時すぎに利明から連絡があり、聖美の腎摘出手術がおこなわれることを聞いていた。そのため篠原は通常業務を終えたあと、医局で待機していたのだった。肝細胞の調整は、摘出が終わってからすぐに始める必要がある。ドナーである聖美はすでに心臓が停止しており、体中の細胞が急速に壊死《えし》へと向かっているからだ。バイアビリティの高い細胞を得るには、腎の摘出後一秒でも早く肝細胞を単離しなければならない。そのため篠原はあらかじめ幾つかの準備を済ませ、いつでも手術室へ行けるようにしていた。医局の若い院生をひとりつかまえ、手伝ってもらう手筈を整えておいた。
腎の摘出が始まったとの知らせを五時五〇分に利明から受け、篠原は院生とともに器具類を手術控室へと運んだ。培養液を恒温器《インキユペータ 》の中に入れ、37℃に保温しておく。手術衣に着替え、移植班による摘出手術が終わるのを待った。
六時一五分に篠原たちは手術室に入った。手術助手となる院生におよその手順を伝え、灌流装置と緩衝液《バッファ》の用意をさせる。
聖美の腹部は開かれたままになっていた。肝は褐色に光り、いい状態を保っている。くすみや傷は見当たらない。先の腎移植班が迅速に切除手術を終えた成果だった。利明の妻は臓器までも美しかったのかと、一瞬奇妙な感動を篠原は覚えた。生きのいい細胞が取れそうだと思った。
篠原は臓器の周りを丁寧に拭き、肝静脈を確認した。指で押し、弾力を確かめてみる。その間に院生が灌流の準備を手早く行っていた。すでに37℃に保温しておいたHEPES《へペス》バッファからチューブが導かれ、ペリスタポンプを経てポリエチレンカニューレにつながっている。篠原は肝動脈をクランプで押さえたあと、左側の肝静脈を切断し、そこに素早くカニューレを差し込んだ。助手がペリスタポンプのスイッチを入れる。肝の左葉から血液が洗い流され、次第に臓器本来の色である黄土色に変化してゆくのがわかる。バッファの流速が適切であることを院生が伝えた。まずは順調な滑り出しだ。これで二〇分間バッファを循環させる。
肝細胞の初期継代培養《プライマリ・カルチヤ 》は、現在世界中の研究室で行われている基本的な手法である。肝の多様な代謝機構を調ベるには、その細胞を採取してきて培養し、それに薬物や基質を与えてやり、細胞が起こす変化を観察するのが一番わかりやすい。ただしヒトの肝臓から生きた細胞を得るのは医学部臨床の研究者と懇意でなければ難しく、従って永島利明のように薬学に席を置く研究者はラットを素材に用いることが多い。ラットの肝細胞はそれでまた良い素材だが、存在する酵素の遺伝子配列をはじめ、種々の面でヒトとは異なってくる。酵素を研究する者にとっては、やはりヒトの細胞で勝負してみたいという思いが常にある。
近年はヒトからバイアビリティの高い肝細胞を採取する技術が開発され、このように臓器移植のドナーから肝細胞を得ることが一般化した。ドナーの年齢によって細胞の生きの良さは異なってくるが、たいていの場合十八歳から三十歳くらいまでのものが用いられる。ドナーは交通事故で亡くなったものが選択されることが多い。病死者とは異なり、臓器を取り出すまでほとんど薬物投与を受けていないので、肝細胞に対する薬物の影響を考える必要がないからである。
灌流は予定通りに進んでいた。院生がインキュベーターの中から二番目のバッファを取り出した。先程のHEPESバッファにコラゲナーゼと塩化カルシウムを混ぜたものだ。灌流する溶液をこちらに切り替える。これでまた二〇分待つ。コラゲナーゼが肝細胞をほぐしやすくしてくれるはずだ。
篠原は、切開部以外は覆布で覆われた永島聖美の全身を見るともなしに見つめた。布はしかし聖美の体が持つ曲線を隠し切れずにいた。不意に、この死体と利明が行った結婚披露宴を思い出した。二年前、篠原は友人代表として下手なスピーチをした。死体はそのとき、二十三歳になったばかりだったはずだ。まだ高校生といっても通じるほど顔はあどけなく、無垢《むく》な瞳をしていた。とても可愛らしい新婦ですね、そういうと雛壇《ひなだん》でこの死体は恥ずかしそうに頬を染め、隣にいる利明に視線を送っていた。ふたりはどんな生活を送っていたのだろう、と篠原は思った。今年利明から来た年賀状がどんなものだったか、記憶を手繰《たぐ》った。だがどうしても思い出せなかった。
肝の左葉がいい具合になってきた。手でそっと触れると柔らかな感触が返ってくる。コラゲナーゼがうまく効いているのがわかった。篠原はストップウォッチを確認した。灌流の時間は終わりだ。篠原はライボヴィッツ溶液の準備をしながら、院生に外で待機している利明へもうすぐだと伝えるよう指示した。
篠原は肝左葉をメスで一気に切り取り、湿重量を測定してから保温しておいたライボヴイッツ溶液に移した。軽くフラスコを揺すると、肝は緩やかに解《ほぐ》れていった。これでシェイクを続ければいい。ここからあとは研究室《ラボ》での仕事になる。
篠原はフラスコ中に雑菌が入らないよう蓋《ふた》をし、それを持って手術室を出た。廊下の壁にもたれていた利明が弾かれたように駆け寄ってきた。その顔は黄土色で、まるで生気がなかった。だが篠原の手にあるものを認めたとたん、充血した目を見開き、荒く息を吐き出して快哉《かいさい》を叫んだ。
「うまくいったと思う」篠原は努めて冷静にいい、幾つかのデータを伝えた。「洗浄《ウオツシユ》はまだだ。五〇g《ジー》くらいの遠心で優しくやってくれ。残屑《デプリス》はガーゼを通して除去する。わかっているとは思うが……」
「ええ、もちろんです」
利明は篠原の手からフラスコをもぎとると、用意していたらしいアイスボックスに入れた。それを大事そうに抱えると、一刻も無駄にできないといった感じでその場を離れようとした。薬学部に戻って細胞を調整するつもりなのだ。義父母たちのことは放っておくのだろうか。利明の目は懸かれたようにボックスに注がれていた。涙さえ浮かんでいる。どう見てもそれは正気な人間のものではなかった。突然、篠原は自分がおこなったことを後悔した。肝の採取などするのではなかった。利明の希望など聞くのではなかった。走り去る利明の背中に、篠原は言葉を浴びせた。
「永島さん、あんた、本当にいいのか? それでいいのか?」
ぴたり、と利明の足が止まった。ゆっくりと利明は振り返り、篠原を見つめ返した。そして低い声でいった。
「なにが?」
「自分のやっていることは異常だと思わないのか? ご両親をおいていくつもりか。それに聖美さんの遺体はどうするんだ。そばにいてやらなくていいのか?」
「遺体? なにをいってるんです」
不意に利明の瞳が歪《ゆが》んだように見えた。篠原は寒気を覚えた。利明は緩やかに顔の向きを変え、脇に抱えているボックスをいとおしそうに見つめた。先程までの憔惇《しようすい》した表情はすでになかった。どこか異様な輝きをみせる目つきのまま、利明はボックスを静かに撫でていった。
「三時間したら戻ってきますよ……。それに、間違えないでください。まだ聖美は死んじゃいない」
篠原をひとり残して、利明は去っていった。寒々としたICUの廊下に、利明の足音だけが響いた。