薬学部の校舎が群青の夜空に浮き上がっていた。数キロ離れた高台に聳《そび》えるテレビの電波塔が錦のような色を発し、その光が天を照らしているのだった。車の中のデジタル時計は午後七時五四分を示していた。まだ人の残っている教室の明かりが不規則に並んでいた。五階の奥にある生体機能薬学講座も、まだほとんど学生が残っているらしく、電気が点いている。利明は校舎の玄関口に車を止め、アイスボックスを持って飛び出した。
外履きをサンダルに替えるのも忘れ、ロビーを抜けた。エレベーターのボタンをもどかしげに何度も押す。エレベーターは四階で止まっていた。誰かが大きな機材を運搬しようとエレベーターをロックしているのかもしれない。利明は舌打ちをして拳でボタンを叩き、そして階段を駆け登った。アイスボックスの中の氷ががしゃがしゃと音を立てる。途中、階段の踊り場で誰かとぶつかった。アイスボックスから水が飛び、床を濡らした。慌ててボックスを開け、中を確かめる。フラスコは無事であった。学生らしい相手が何かいった。だがそれを無視して、利明は残りの階段を一段飛びで上がっていった。
「先生!」
培養室の前まで来たとき、廊下に高い声が響いた。
講座に残っていたのは浅倉佐知子だった。白衣を着て、両手にエッペンドルフチューブの入った袋を抱えていた。大きく目を見開き、利明の顔とアイスボックスを交互に見比べていた。
「培養室を使わせてくれ」
そういって利明は浅倉を振り切ろうとした。だが浅倉は弾かれたように利明の前に回り込んだ。
「いったいどうしたんです? お、奥さんのところにいたんじゃ……」
「どいてくれないか。やらなきゃならないことがある」
「なにかあったんですか。ぜんぜん連絡をくれないと思ったらいきなり実験だなんて……。心配してたんです、学生も、ほかの先生も」
「なあ、浅倉……」
「あたしたちでお手伝いできることがあったら遠慮しないで……」
「邪魔《、、》だ! どけ!」
利明は一喝した。浅倉がびくりと体を震わせ、縮むようにして道を開けた。利明は培養室の中に入った。
部屋の中は殺菌灯の青白い光に沈んでいた。利明はスイッチを切り替えて普通の蛍光灯を点けると、部屋の入り口に置いてある内履きのサンダルをつっかけて中に進んだ。
急いで冷却遠心機とクリーンベンチのスイッチを入れた。ベンチ内の空気が吸引される低い音が室内に満ちる。ガス栓を開き、ベンチ内のバーナーをつけた。
利明はアイスボックス内からフラスコを取り出し、様子を見た。ベンチ内にフラスコを入れ、利明は腕まくりをして両腕をエタノールで消毒し、ベンチ内のセッティングをした。フラスコ内の液をスターラーを用いて撹拌《かくはん》した後、ガーゼを通して数本のチューブに移し、遠心にかけた。上清を捨て、バッファに懸濁し、さらに遠心する。この操作を三回繰り返した。最後に細胞を培地に懸濁させ、その 部をピペツトマンで別のチューブに取った。跳ねるようにしてベンチの前から立ち上がり、利明はそのチューブを持って倒立顕微鏡の前に駆けた。細胞数を測定する目盛りつきのスライドグラスにその溶液を一滴垂らし、カバーグラスをかぶせた。震える手で台にセットし、像を覗き込んだ。
きらきらと黄白色に光る球形の細胞が幾つも見えた。利明は思わず喉の奥から感嘆の声を漏らした。形もそろっている。細胞の光度も申し分なかった。生きが悪いと決してこのような輝きは見られない。
念のため利明は細胞をトリパンブルー溶液と混合してバイアビリティと細胞数を調ベてみた。青く染色されるはずの死細胞はほとんどないといってよかった。バイアビリティ90%、肝一グラム当たり8×10個の細胞が取れていた。最高の結果だ。
利明はクリーンベンチに戻り、手早く幾つかの培養フラスコに細胞を移した。それらを37℃のインキュベーターに入れる。残りの細胞は慎重に保存溶液と混合し、血清チューブに入れ、綿でくるんでマイナス80℃のフリーザーに保管した。
そこまで一気にことを終え、利明は大きく息をついた。冷却遠心機のモーター音が低く部屋の中に響いていた。
利明はインキュベーターの中から先程調整したフラスコを取り出し、顕微鏡の下に置いた。ひとつ唾を呑み、そしてレンズに目を当てた。
橙《だいだい》色の培地の中で、肝細胞は光り輝いていた。利明はその光景からしばらく目を逸らすことができなかった。美しい、そう利明は思った。これまで培養してきたどんな細胞よりも美しかった。それは真珠のように大きく、丸く、眩量《めまい》がするほど華麗な光を放っていた。いつの間にか、利明は聖美の名を譫言《うわごと》のようにつぶやき続けていた。聖美の肉体は不幸にも傷つけられたかもしれない。しかしまだ聖美の全ては死んだわけではない。腎臓は見知らぬレシピエントに捧げられ、いま移植手術が進められているはずだ。そして肝はこうして利明の目の前にある。ひとつひとつの細胞になっても聖美は美しかった。聖美はこうして生き続けている。この細胞を死なすわけにはいかない。なんとしても長期継代に持っていかなくてはならない。聖美の体をこれ以上失うわけにはいかない。利明は全身に熱い震えを感じていた。
利明は再びごくりと音を立てて唾を呑んだ。そして耐え切れずに、
「ああ」
と胱惚《こうこつ》の声を漏らした。