一週間ほど前から、麻理子は立って歩くことが許されるようになった。寝たきりだつたので体がだるく、すこし足元がふらついたが、それでもじっとベッドの中で背中の痛みを我慢しているよりはましだつた。
ベッドの位置からでは白い壁と幾つかの機器類しか見えなかったが、歩いて窓のあるところまで行けるようになり、ようやく中庭を眺めることができるようになった。陽射しが強い。木々の枝葉に繁る鮮やかな緑が瞼《まぶた》に眩しかった。じっと見つめていると外の暑さが伝わってくる。汗が出てきそうだつた。
三日前からは歩いて行ける範囲を広くしてもらえた。それまで病室の中だけだったのが病棟内を散歩していいことになった。そして明日からはさらに病院の売店までと範囲が増え、シャワーを浴びてもいいことになった。吉住医師や看護婦たちは麻理子が順調であることを大袈裟に喜んでいたが、そういった空々しい演技をされるほど麻理子の気持ちは冷めていった。誰も彼もなんとか麻理子の気を引こうと必死になっている。そんな周囲の気遣いがひどく響陶《うつとう》しく感じられた。
夜、麻理子の父親が見舞いに来た。
いつもと同じ、ネクタイにスーツ姿だった。こんな格好で暑くないのだろうか、と麻理子は思った。会社も冷房が効いているのだろうか。父は弱々しい笑みを浮かベながら麻理子に片手を上げてみせた。
「……調子はどうだ」
いつもその台詞《せりふ》だった。一目見ればわかることをわざわざ訊いてくる。麻理子は吐息をついた。
「なにか欲しいものはないのか。読みたい本でもあれば買ってきてやるぞ」
無理に笑顔をつくっているのがわかった。麻理子はすこし面倒臭くなり、口を開いた。
「お金ちょうだい」
「……なんだつて?」
父親は不意のことに驚いたのかきょとんとしていた。
「お金。もう明日から病院の中の売店にいってもいいんだって。欲しいものは自分で買う」
父親は黙っていた。長い沈黙があり、静寂があった。
随分と時間が経ち、やがてどこかからぷーんという低いうなりが聞こえてきた。車の排気音かもしれないし、クーラーの音かもしれなかったがよくわからなかった。うなりが聞こえなくなったあとで父が大きく息を吐き出した。
「麻理子」
と父はいった。
「なにをそんなに突っ張っているんだ。教えてくれ。お願いだ、頼む」
「………」
「前の移植のときは嬉しがっていたじゃないか。退院してからも喜んで学校にいっていたようにお父さんは思っていた。どうして今度はそんなに嫌がっているんだ。移植が嫌だったのか。本当は透析のほうがよかったのか。どうなんだ? なにかいってくれ」
「………」
「麻理子……」
麻理子が口を喋《つぐ》んでいるのに耐えられなくなったのか、父は声を詰まらせ、それきりまた黙ってしまった。どこかで再びぷーんという音がした。
麻理子にはわからなくなっていた。父がどうして自分に腎臓をあげようなどと思ったのか、それがわからなかった。
「……お父さん」
父がはつと顔を上げた。
「お父さんは本当にあたしに腎臓をあげたかったの?」
「なにをいう……」
はっきりと父が狼狽するのがわかった。その一瞬を麻理子は見逃さなかった。
麻理子は父の顔を見据えた。今度は逆に父が目を逸らしていた。
「本当はお父さんのほうが嫌だったんじゃないの? あたしがこんな病気になって厄介だと思っていたんじゃないの? もしお母さんが生きていたら、お母さんの腎臓があったのにと思っていたんじゃないの? それなのにあたしのせいで移植がだめになったから……」
「やめないか!」
ばんと音がした。
じわりと麻理子の頬に痛みが滲んできた。なにをされたのか、しばらくのあいだ麻理子はわからなかった。
見ると、父親は俯《うつむ》いて震えていた。顔が影に隠れてよく見えなかつたが、なにかこらえきれなくなった言葉を眩いているようだった。
しばらくして父親は帰っていった。麻理子はベッドの中で暗い天井をずっと見つめていた。ときどき微《かす》かなうなりが耳に入ってきた。よく聞いてみると、それは地の底で動くマグマの音のような気もした。
「今日から安斉が退院してきた」
朝のホームルームの時間、先生がそういって麻理子を教室の前に立たせた。
クラスのみんなの目が一斉に自分に集まってくるのがわかった。前の席にいる子は麻理子の顔を覗き込むようにして見上げ、後ろの席の男の子は首をのばしてすこしでも麻理子の姿を多く見ようとしていた。
「安斉はお父さんから腎臓をもらって移植手術をした。しばらくのあいだは無理な運動はできないが、これからは給食もみんなと一緒に食ベられるし、放課後の活動もできると思う。入院していたあいだのことは、みんなで教えて安斉を助けてやってほしい。授業もどこまで進んだか、みんな教えてやってくれ」
麻理子はすこし恥ずかしくて、先生が事情を説明するあいだ俯いていた。しかし内心、学校へ戻れたことは嬉しかつた。やっぱり友達と一緒にいるほうが楽しいのだ。
ふと、視線の隅でなにかがちらちらと動いているような気がして、麻理子は視線を向けた。友達の女の子が、にっこりと笑って小さくピースサインを動かしていた。友達の口が動いた。声を出さずに、しかし大袈裟に一字ずつ区切って麻理子にメッセージを送ってきた。
お、め、で、と、う。そういっていた。
麻理子は笑って、先生に気づかれないようにそっとピースサインを送ってみせた。
学校は楽しかった。友達はみんな親切にしてくれた。授業はかなり先まで進んでいて、算数や理科はよくわからないところもあったが、友達がその部分のドリルを貸してくれたのでなんとかついていくことができた。すぐに麻理子は透析を受ける前の学校生活を取り戻していった。みんなと同じことができる、という当たり前のことが、とても嬉しかった。
ただ、体育の時間と、朝夕のトレーニング活動は控えておくことにした。慣れるまでは様子をみたほうがいいだろうということになっていた。
ちょうどその時期、体育の授業は水泳だった。みんなが勢いよく水の中に入るのを、麻理子はプールの脇で体育座りをしながら眺めていた。ときどき大袈裟な水しぶきをあげる同級生もいて、麻理子のところまで水が飛んできた。
みんながクロールで順番にプールの中を泳いでいる姿を見ていると、麻理子は左の下腹部に鈍い疹きのようなものを覚えた。そっとそこを手で押さえてみると、なにか体のなかにしこりがあるように感じられた.
お父さんの腎臓だ、そう思った。
麻理子の脇腹には手術の跡がはっきりと残っている。縫合の跡は腱《けん》が突っ張ったようになっており、ぎざぎざの形に隆起していた。大きなムカデのようで、腰をひねるとぐにゃりと歪む。麻理子はこの傷痕が嫌だった。そのちょうど下に、父親の腎臓が埋め込まれている。手術からもうずいぶん経つというのに、麻理子はその移植された腎臓にどうしようもない違和感を感じていた。ふだんはそれほど気にならないのだが、水泳の時間のように主同級生の男の子の体を見たりして脇腹のあたりを意識してしまうと、自分が移植を受けたのだという事実をいやでも思い出すことになった。
一旦意識してしまうと、どうしても入院していたときのことや、それ以前の透析の記憶が連鎖的に蘇ってきた。好きなものを好きなだけ食ベられない。夜は病院にいかなければならない。みんなが見ているテレビ番組も見れなかったし、ベッドの上で腕を出して寝ているのも嫌だった。なにより水の量が制限されているのが辛かった。思いっきり水を飲んでみたいと何度思ったかわからない。
一度腎臓が動くのを感じとると、それは水泳の時間が終わってもなかなか消えなかった。
なぜこんなに疹くんだろう。そう思った。
もしかしたら、お父さんの腎臓はあたしに合わないんじゃないか。
麻理子は背筋にひやりとしたものを感じた。
また腎炎が再発したら? この腎臓がだめになってしまったら? また透析をしなくてはならないのだろうか。また食べたいものも食べられなくなってしまうのだろうか。
考えてはいけないことだった。そんなことあるはずがない。考えるのも嫌だった。麻理子は妄想《もうそう》が浮かんでくるたびに大急ぎで頭を振った。第一、もうお父さんはひとつしか腎臓をもっていないのだ。この腎臓がだめになったとしても、次のものをもらうことはできない。
そう。できなかったはずだった。
死体腎の順番は簡単には回ってこない。そう吉住先生から聞いていた。自分の体のタイプに合うドナーの人が出てくるまでずっと待っていなくてはいけない。そう聞いたから、登録したのだった。もう移植しないというとお父さんが怒るかもしれないから、登録するだけ登録しておいたのだ。自分ではそのつもりだった。
自分でももういちど移植をしたかったのかどうかわからなかった。なるベく考えないようにしていた。透析をしているときに移植したときのことを思い出してしまうと、胸が締めつけられるような痛みを感じた。そういうときは目を閉じて歯を食いしばった。あんなにおいしいものを食ベることができたのに、あんなに楽しかったのに、そういう思いがあとからあとから出てきて止まらなくなり、どうしたらいいのかわからなくなった。どうしてあんなことをしたんだろう、そんなことばかりが頭に浮かんでしまうのだった。
どこから始まったんだろう。麻理子は記憶を手繰《たぐ》った。どこからこんなことになったんだろう。
水しぶきの音がした。聞き覚えがぁった。水泳の授業だろうかとも思ったが、そうではなかった。遠くからざわめきが聞こえてくる。よく聞き取れなかった。麻理子は耳を澄ましてみた。ざわめきが大きくなってゆく。音が近づいてくる。ざわめきはどよめきへ、そして歓声に変わってゆく。また水が弾ける音がする。歓声はどんどん大きくなり、鼓膜が破れそうになってくる。
一気に視界が開けた。
鮮やかな空だった。水を映したように真っ青な空に雲がひとつ浮かんでいた。
歓声が麻理子を包んでいた。麻理子はみんなといっしょに立ち上がって声援を送っていた。水しぶきの音が歓声の隙間を縫って耳に届いてくる。そうだった。ようやく思い出した。その日はクラス対抗の水泳大会だったのだ。
個人種目が終わって、競技は最後のリレーになっていた。各クラス男子三人、女子三人が、それぞれ交替で二五メートルずつ泳ぐ。小学校時代最後の水泳大会で、しかもこれが最後の競技ということもあり、みんなの興奮は最高潮に達していた。
四人目がプールに飛び込んだ時点で麻理子のクラスは二位につけていた。一位のクラスとは五メートルほど離れていたが、十分逆転可能だった。選手はみな主すごいスピードのクロールで泳いでいた。麻理子たち観客はプールの縁まできて身を乗り出すように応援する。麻理子の体にも水がかかったが、そんなことは気にならなくなっていた。
一位に数秒遅れて麻理子のクラスの選手が壁にタッチする。同時に勢いよく飛沫《しぶき》があがり、五番目の選手がプールに入った。
五番目は女子の最後だった。麻理子のクラスの選手は五メートルも潜水してから水面に現れた。みると一位との差が三メートルほどに縮まっていた。
「がんばって!」
麻理子は隣にいる友達といっしょに声を張り上げた。
だがそれ以上差は縮まらなかった。平行線をたどったまま、麻理子のクラスの選手はすぐに二〇メートル近くを泳いでしまっていた。アン力ーの選手が飛び込み台の上で準備しているのが見えた。
「麻理子、ちょっと、一組のアンカーは青山くんだよ」
隣にいる友達が肘《ひじ》でつついてきた。はっとして麻理子は一組のコースを見た。
本当だった。日曜日にもプールにいっているのか、かなり黒く日焼けしていた。飛び込み台のところに立って、泳いでくる自分のクラスの選手に向かってさかんに声を上げ、はやくはやくと大きく手招きをしている。そのとき突然麻理子の腎臓が疹きだした。麻理子は顔をしかめて下腹部に手をやった。いままで忘れていたのに、急に移植のことを思い出してしまったのだ。青山くんの日に焼けた姿を見たとたんだった。心臓がどきどきしていた。腎臓のことを振り払おうと麻理子は大声を出し、そしてふと、一組は何位なんだろうと思ってプール全体を眺めた。どきりとした。三位だった。
ざぶん、ざぶんと大きな音が二回続いた。一位のクラスと麻理子のクラスのアンカーがスタートしたのだ。歓声が一層激しくなった。
「もうちょっとだーっ!」
すごい声がした。青山くんだった。飛び込み台の上で身を乗り出している。一組の選手はタッチまであと一、ニメートルというところだった。
一位と麻理子のクラスのアン力ーが水面に顔を出した。息継ぎをして、同時に最初のひとかきをおこなう。依然としてふたりの差は三メートル離れている。
だが麻理子は青山くんから目をはなすことができなかった。自分のクラスを応援しなければいけないとわかっているのに主飛び込み台で大声を張り上げている青山くんを見つめていた。
一組の選手がタッチした。
次の瞬間、青山くんが飛んでいた。誰よりも遠くへ飛んでいるように見えた。きれいな線を描いて、青山くんはぴんと伸ばした指先から切り込むようにして水の中に入っていった。
その音は聞こえなかった。
青山くんは音を立てないで飛び込んでいた。
それどころか、周りの音も消えていた。麻理子も、隣にいる友達も、みんなが絶叫しているはずなのに、凍ったように静かになった。無声映画の中に入り込んだようだった。
青山くんが浮かび上がった。斜めに顔を向けて息を継ぎ、そして左手を親指から水面に入れた。青山くんの体が進んでいった。
そのとき気がついた。麻理子のクラスのアンカーの足先が、青山くんの伸ばした指先と同じ位置にあったのだ。青山くんはいきなり麻理子のクラスとの差を大きく縮めていた。
喉が痛かった。声を出し過ぎて嗄《か》れてしまったのだ。しかし麻理子は声を出し続けた。その声は自分の耳に聞こえなかったがそれでも精一杯声を出した。
麻理子は自分が誰に声援を送っているかわからなかった。自分のクラスのアンカーを応援しているつもりだった。しかし視界には青山くんの姿しか入っていなかった。青山くんはさらにスピードを上げていた。あまり飛沫を立てていないのに、ひとかきすることに麻理子のクラスのアンカーに近づいていった。その差はもう五、六〇センチくらいになっていた。
アンカーが麻理子の前まできた。ゴールまであと五メートルといったところだった.麻理子の正面で、麻理子のクラスの選手と青山くんの体がぴったり重なった。追いついたのだ。そのとき、青山くんが息継ぎのために顔を水面に上げた。
目があったような気がした。
どきりとして麻理子は息を呑んだ。腎臓が疹いた。麻理子は声援するのを忘れ、青山くんの姿をじっと見つめていた。
一位のクラスのアン力ーが壁にタッチした。すぐあとに二位と三位が並んだ。不意にブールの全景が暗くなった。太陽に雲がかかったのだ。
青山くんの指が壁につくのが、一瞬早かった。
どっと歓声が起こった。音が麻理子の耳に雪崩《なだれ》のように押し寄せてきた。みんな腕を振り上げ、大声でわめいていた。
「麻理子、三位になっちゃったよ!」
横にいた友達が飛びついてきた。
麻理子も歓声を上げていた。
笑顔で歓声を上げていた。
青山くんは一組の学級委員長だった。すこし小柄だったが運動がよくできた。明るくてよくおもしろいことをいってみんなを笑わせていた。いままで同じクラスになったことはなかったが、学年の中では目立っていたので前から知っていた。かっこいいなと思うようになったのは、五年生の頃からだった。
まだ話をしたことはなかった。きっかけがなかったのだ。それに青山くんはけっこう女子のあいだでも人気者だった。何人かの女の子と楽しそうに話しているのをよく見かけることがあった。
あまり自分とは釣り合わないような気がした。
青山くんはスポーツマンタイプだから、きっと運動ができて元気な女の子が好きなんだろう、と勝手に想像していた。自分は透析をやっていつも具合が悪かったし、移植手術だってやっている。これから体育もやれるようになるとはいえ、お世辞にも健康的とはいえなかった。それに背も小さいし、脇腹に手術の傷痕もある。毎日薬だって飲まないといけない。いかにも病人みたいだ。麻理子は最初から諦め気分だった。
それでも吉住先生に訊いたことがある。
「先生、もうあたしは治ったんですよね。もう病気じゃないんですよね」
吉住先生に、自分はもう病人ではないといってほしかったのだ。
だが答はそうではなかった。薬を飲むのをすこしでも忘れたら拒絶反応が起こってしまう。だから絶対に自分が移植をしたということを忘れてはいけないのだと。
その言葉に、麻理子は頷くしかなかった。それが正しいことはわかっていた。
なんで腎炎なんかになってしまったのだろう。そのときほど自分の体が嫌になったことはなかった。
腎炎にならなければ運動だってもっとできたかもしれないのに。そう思った。
それでも偶然に青山くんと廊下ですれちがったりするようなときには少し嬉しくなった。放課後、わざわざ一組の前を通って中をそれとなく覗いたりしてみた。麻理子の教室から下駄箱へゆくなら、一組はむしろ反対方向になる。だから一組の前を通るときはそこからぐるりと渡り廊下を進み、校舎を一周するというとんでもない遠回りをして下駄箱に向かった。青山くんがいないときはなにげないふりをしてそのまま通り過ぎた。しかし青山くんの姿が見えたときは、嬉しさをこらえきれずについ歩調が遅くなってしまうのだった。
それがいけなかったのだ。
夏休み。が終わり、九月に入って二週間がすぎていた。そろそろみんな夏休み気分が抜けてきたところだった。
麻理子はその日の放課後、一組にいってみたのだ。いつものようにすこし首を曲げて、教室のほうに視線を向けてみた。
青山くんの姿はなかった。
すこしがっかりして、麻理子は通り過ぎようとした。そのときだった。
一組の中から唾《はや》すような声が上がった。
「安斉、なにしてんだ!」
はっとして麻理子は立ち止まった。
見ると、教室の中で男の子がふたり、机の上に腰を下ろしながらにやにや笑っていた。一組の中にはふたりのほかにはほとんど生徒はいなかった。夕方のホームルームが早く終わって、みんな帰ってしまったあとらしかった。
「なんでいつも覗いてくんだよ」
去年同じクラスだった男の子たちだった。女子にやたらとちょっかいをだしていじめようとするので、麻理子たちは嫌っていた。
「なんでもいいでしょう」
麻理子は恥ずかしさを隠すためにわざとつっけんどんな返事を返した。
だがそれが逆にふたりを刺激してしまったようだった。突然ひとりが口調を変えた。
「わかってるぞ、おまえ、青山が好きなんだろ。だから見にきてるんだろ」
知られていたのだ。
麻理子は自分の顔が真っ赤になるのを感じた。なにかしゃべろうと思ったが、口がぱくぱくと動くだけで声にならなかった。
「残念だな、もう青山は帰っちゃってるよ。おまえみたいな下ぶくれは好みじゃないってよ」
そういってふたりは冷笑した。
麻理子は踵《きびす》を返した。はやく逃げ出したかった。
走りだそうとした瞬間、その言葉が聞こえてきたのだった。
「おい、あいつ親父に腎臓をもらったんだってさ」
足が動かなくなった。
「自分の腎臓が動かなくなったから親父のを自分の体にくっつけたんだってよ」
なんでそんなことを持ち出すんだろう。青山くんとは関係ないことだ。耳を塞《ふさ》ぎたかった。しかし体が硬直していうことをきかなかった。ここから消えてしまいたかった。それなのに足がまるで動こうとしなかった。
ふたりは聞こえよがしに会話を始めた。
「フランケンシュタインみたいだよ、なあ?」
「人の腎臓をもらってまで生きていたいのかよ。いじきたねえ」
「お化け野郎。体の中はつぎはぎだらけなんだろ」
「ちゃんと小便出てんのかよ」
ふたりはげらげらと笑い声を上げた。それは麻理子の頭のなかでがんがんと鳴り渡った。やめてと麻理子は何度も叫んだ。あたしはお化けじゃない、フランケンシュタインじゃない。そうわめいた。しかし声にならなかった。
「あんたたち、やめなさいよ!」
誰かの叫び声が響き、その拍子に麻理子はがくんと前のめりに倒れた。金縛りが解けたのだ。廊下のタイルで額を打ち、頭が軋んだ。霞んだ視界を向けると教室の中で何人かの女子が二人組相手に言い争っているのが見えたが、それが誰なのかははっきりとわからなかった。
麻理子は逃げた。女子の声が「麻理子ちゃん、待って1」と追いかけてきたが、麻理子はそれを無視した。下駄箱までの距離が長かった。急いで靴を変え、わき目もふらずに家へ帰った。一度も立ち止まることはなかった。息が切れ、横腹が痛んだ。涙が溢れ、周囲の景色が歪んで見えた。
家に着くと麻理子は薬を捨てた。薬袋から取り出し、包装を破り、色のついたカプセルや錠剤を便器の中にぶちまけた。病院からもらった免疫抑制剤だった。レバーを下げると薬は渦を巻いて下水へと流れ込んでいった。ごぼごぼという音が麻理子の耳に残った。
あたしはお化けじゃない。
フランケンシュタインじゃない。
麻理子は便器の前にしゃがみこみ、顔を膝の間に埋めた。涙が溢れた。溢れて止まらなかった。ひくっ、ひくっとしゃくりあげながら、麻理子はトイレの中で泣き続けた。
……そして拒絶反応が起こった。
麻理子は直ちに入院しICUに入れられた。いったん始まった反応はどこまでも転がっていった。もう元には戻らなかった。吉住が信じられないといった表情で見つめてきたのを麻理子は覚えている。
「どうして薬を飲まなかったんだ」
吉住が強い調子で尋問してきた。だが麻理子は決してそれを認めなかった。
「飲みました」という麻理子を、しかし吉住は信用しようとはしなかった。
「それならこんな拒絶反応は起こるわけがない」
「ちゃんと飲んでました」
「嘘はだめだ。あんなに調子がよかったのに、どうしてこんなことをしたんだ? 正直にいいなさい、薬を飲まなかったんだろう。あれほど注意したじゃないか」
吉住が絶望的な呻ぎをあげた。それとはわからないようにしたつもりだったのだろうが、麻理子はそれを見逃さなかった。
「摘出することにします」
結局、吉住からそう言い渡されたのは移植してから半年後のことだった。
「麻理子さんの中に入れた腎臓はもうすでに縮んでしまっています。今後機能することはありません」
吉住と麻理子と父の三人で、今後をどうするかという話し合いがおこなわれた。しかし結局は話し合いというより吉住がほとんど喋《しやべ》る格好だった。吉住は麻理子のベッドの前に座り、ときどき麻理子に哀れむような視線を投げた。それは麻理子の気のせいだったのかもしれない。だがそのときはそう見えたのだった。そして父は吉住の言葉に反応していちいち苦渋の声を上げていた。
せっかく父がくれた腎臓を潰《つぶ》してしまったのはあたしだ。そう麻理子は思った。父が腹の中で何を考えているのか想像するのがこわかった。しかしそのときの麻理子の思考は暴走して止まらなくなっていた。
父は怒って当然だった。自分がやった腎臓を子供が拒否したのだから。順調に生着していたというのにわざと薬を捨ててしまったのだから。自分から拒絶を起こすようにしてしまったのだから。どうしようもない娘だと思っているに違いないのだ。
吉住という医者も同じはずだった。せっかく苦労して手術したというのに、時間をかけて治療したというのに、ばかな患者がいうことをきかなかった。始末におえない子供だ、そう思っているに違いない。
違いないのだ。
麻理子は目を閉じた。ぷーんという低いうなりはいつの間にか聞こえなくなっていた。
なかなか寝付けなかった。外の暑い空気が病室の中にまで染み込んできたようだった。寝返りをうつとベッドがわずかにぎしりと音を立てた。
このまま感染症が起こらなければじきに退院になる。麻理子はそのときのことを想像した。
学校に戻るのが嫌だった。あのふたりの笑い声がまだ耳にこびりついていた。学校にいったら、遅かれ早かれまたあのような中傷を受けるだろう。そう思うとやりきれなくなった。あんなことをまたいわれるくらいなら、一生透析をしていたほうがましだ。
明日の朝になれば看護婦がやってくる。その手には包装されたカプセルや錠剤が入った白い袋がある。免疫抑制剤が入っているのだ。
あれを飲まなかったらどうなるだろう。
ふと、麻理子はそんなことを考えた。
飲んだふりをして奥歯の横にでも隠しておくのだ。看護婦がよそみをしているすきに吐き出してベッドのクッションの下にでも突っ込めばいい。誰も麻理子が薬を飲まなかったとは思わない。
そうすれば拒絶反応が起こる。移植は失敗してすべてはふりだしに戻る。もうお化けやフランケンシュタインなどという者はいない。
暑さの中で麻理子の思考は次第に朦朧《もうろう》となっていった。眠るか眠らないかの間をさまよいながら麻理子は移植が失敗に終わるときのことを考えていた。
どこかで微かに、ぺたん、という音がした。
はっとして麻理子は耳をすました。そのまま息を殺して一分近く聞き耳を立てていたが、なにも聞こえてはこなかった。
空耳だったのかもしれない。
麻理子は安堵の息をついた。天井を見上げる。電灯の傘が暗い部屋の壁に漆黒の影を落としている。
死体腎の提供があると最初に聞いたとき思ったのは、そのことだった。
死んだ人のものが自分の体の中に入る。それが急に実感を伴って襲ってきたのだ。耐えられなかった。
このところ毎晩同じ夢を見ていた。遠くから、ぺたん、ぺたん、と音を立てて、誰かがゆっくり歩いてくる。麻理子の病室目指してやってくる。麻理子は逃げられない。なぜか体がすくんで立ち上がることができない。心臓が破裂しそうなほどどきどきする。そして麻理子の下腹部が脈を打ち出すのだ。移植された腎臓が、麻理子の体の中で動いているのだった。まるで迎えが来たことを喜んでいるように。
足音は麻理子の病室の前で止まる。やがてドアのノブがゆっくりと回り出す。
いつも扉が開くところで目が覚めるのだった。
だが、麻理子にはわかっていた。
そう。
足音の主が誰だかわかっていた。
あれは腎臓提供者《ドナー》だ。
腎臓を抜き取られた死体だ。自分の腎臓を取り返しにやってきたのだ。
昔、漫画を読んだことがある。腎炎になる前だった。友達から怪奇漫画を貸してもらったのだ。もう作者の名前も題名も忘れてしまっているし、内容もおぼろげにしか思い出せない。
だが読んだときのショックは今でもはっきりと覚えている。その夜はトイレにいけなくなったほどだ。
主人公の少女は階段から落ちてしまい、体を動かすことができなくなる。まわりの大人や医者たちはそれを少女が死んだものと判断してしまう。少女の意識はしっかりしているし、まわりで何が起こっているかもちゃんとわかるのに、自分が生きているとみんなに知らせることができないのだ。
少女は手術室に連れていかれる。心臓移植のドナーにされてしまうのだ。少女は必死で自分が生きていることを気づいてもらおうとするのだができない。自分の体から心臓が切り出されてゆくのを見ているしかない。
そして少女は埋葬される。だが少女の怨念はおさまらない。どうしても奪われた心臓を取り戻したいと思い、墓場から蘇ってしまうのだ。
最後はゾンビになった少女がレシピエントのところにやってきて、自分の心臓を扶《えぐ》り取ってしまう。たしかそんな内容の話だった。
漫画に描かれた少女の凄《すさ》まじい形相《ぎようそう》が麻理子の頭の隅に張り付いて離れなかった。死体腎と聞いたとき真っ先に思い浮かんだのがその漫画だった。
麻理子はどんな人が自分のドナーになったのか、いまだに知らなかった。看護婦に何度訊いても、それは決まりで秘密にしてあるのだと答えるばかりだった。
本当はドナーの人は死んでいなかったのかもしれない。あの漫画のように意識があったのかもしれない。なんとか自分は生きていると訴えたかった。それなのにあの吉住という医者が手術をして腎臓を取り出してしまった。ドナーの人は自分の体がほじくりかえされるままにしているほかなかったのだ。
自分のところにもドナーの死体がやってくる。 、
あの足音はドナーだ。麻理子にはそれ以外考えられなかった。わかっている。あたしに埋め込まれた腎臓を奪い返しに、いっかゾンビがやってくるのだ。脇腹に大きな穴を開けたまま、血管や腸をずるずるとそこからはみ出させた格好で、恨みの言葉を口にしながら歩いてくる。いつかあの扉が開き、あの漫画の少女のような顔をして現れ、あたしの体に手を突っ込み、ぐちゃぐちゃに掻《か》き回して、あたしの中から自分の腎臓を取り出すのだ。
そしてあたしは血まみれになって、このベッドの上で死んでゆくのだ。