ぼわっという巨大な音が会場に反響した。
場内の温度が一気に上昇した。瀑渦《ばくか》のような熱風が圧《お》し寄せる。天井がオレンジ色に染め上げられた。
浅倉を覆う肉の襞が油のように火焔《かえん》を上げている。その色は赤から紅、そして黄白色へと変わっていった。天井まで届きそうなほどの勢いだった。浅倉の体は火柱となっていた。
あちこちで絶叫が上がった。人々が一斉に出口へと走り出した。狭い一点に五、六〇人もの人間が殺到してゆく。怒号が上がる。激しい圧し合いが始まった。大きな音を立てて椅子が転がる。誰かが入り口付近で倒れた。後ろから来る者がそれを踏み付けてゆく。
利明はスーツの上着を脱ぎながら演者席へと駆け寄っていった。
近づくにつれEve1の放つ業火《ごうか》が利明の体を圧迫してきた。屈《かが》むように体を折り曲げないと一歩も前へ進むことができない。怒濤《どとう》のような熱風だった。浅倉は息ができないらしく、激しく壇上でもがいている。両足に穿《は》いたストッキングが浅倉の脚を嘗《な》めるようにして燃えていった。長い髪が扇のように広がり青白い火炎をあげている。
利明は上着で体をかばいながらなんとか壇上に上がった。上着を広げて浅倉に飛びかかる。上着で浅倉を包んだ。浅倉がバランスを崩す。利明も一緒に倒れた。浅倉がばたばたと壇上を転げ回る。だが利明は浅倉の体を離さなかった。
炎が利明の体を包んだ。息ができなかった。眼球がとてつもなく痛んだ。爪の中に火が入り込んでくる。浅倉の体に張り付いたEve1はすでにがさがさになり悪臭を放っていた。だが炎は消えようとしなかった。誰かが利明の背中を引っ張っている。どこかで篠原の声が聞こえた。
「消火器を!」見えない篠原に向かって利明は叫んだ。「消火器をはやく!」
口の中に焔《ほのお》が侵入してきた。利明はそれを呑み込んでしまった。喉の粘膜が焼ける。利明は激しくむせた。肺の中が爛《ただ》れてゆく。遠くでベルが鳴っている。利明は気が遠くなっていった。
そのとき、なにか重いものが利明の全身に降りかかってきた。
それがなんなのか利明にはわからなかった。それは止むことなく利明と浅倉の体に降り注いでくる。浅倉の動きが鈍った。炎が勢いを失った。床が滑る。次第に熱さが引いてゆくのがわかった。利明は呻いた。自分の体が濡《ぬ》れている。シャツがベったりと胸に張り付いてくる。利明は片目を開け、天を仰いだ。
一点から何かが広がってくる。それが利明の顔へ落ちてくる。
利明は目を閉じた。
水だった。
気がつくと利明は担架に乗せられていた。
あわてて身を起こし、あたりを見回した。発表会場の中だった。床一面に水たまりができている。演者が立つ雛壇《ひなだん》からはまだ白い煙が上がっていた。天井のスプリンクラーからぼたぼたと水滴が落ちてくる。白衣姿の男が見えた。
「浅倉!」
まず頭に浮かんだ言葉を利明は叫んだ。
「気がついたか」
篠原が蒼白《そうはく》な顔で覗《のぞ》き込んできた。利明は篠原の襟元《えりもと》をつかんでわめいた。
「浅倉は? 浅倉はどうしたんです」
「あそこだ」
篠原は横に視線を向けた。
そこには黒ずんだものが担架に乗せられていた。数人の救急医がそのまわりを取り囲んでいる。それが浅倉の肢体だとわかるのに少し時間がかかった。
「浅倉!」
利明はそこへ這《は》い寄った。誰かが後ろから利明を押さえつける。利明はばたばたと手を動かした。
浅倉の服は半分ほどが焼け落ちていた。腕や顔が赤く腫《は》れ上がり、ところどころに水ぶくれができている。長い髪は縮れて焦げた匂いを放っていた。利明は両手で顔を覆い絶望の声を上げた。
「安心しろ、浅倉さんはまだ生きている」
篠原の叫ぶ声が聞こえた。はっとして利明は顔を上げた。
浅倉が呻きながら体を捩《ねじ》った。救急医がそれを直し気道を確保する。口にマスクを圧し当て酸素を送り込む。別の救急医が「輸液を!」と叫ぶ。
そのまま浅倉は担架に乗せられ運び出された。
「火が出たのはあの化け物で、浅倉さんの体には炎が直接あたらなかった。すぐに消したのも良かったんだ。見た目よりは軽症だぞ」
篠原が安心させるように利明にいった。
「……治るだろうか」
「大丈夫だ。今の救急センターには熱症患者を治療する専用のユニットがある。輸液をしっかりやって、ひどいところには部分的に自家移植すればほとんど目立たなくなる」
「……なんてことだ」
「それより永島さん、あんただってもう少しで焼け死ぬところだったんだぞ。おとなしく担架に乗って病院へいってくれ」
救急医が利明を後ろから抱きかかえた。担架に連れ戻そうとする。
「……だめだ」
利明はそれを振り払った。
「なにをいってるんだ」篠原が驚いていう。
だが利明はそれを無視した。扉へ向かって走る。足がもつれたが必死で体勢を立て直した。
「おい、どこへ行くんだ。待て!」
体中がずきずきと痛んだ。だが利明は走り続けた。教え子をあんな目にあわせてしまうとは、なんて俺はばかだったんだ。利明は何度も悪態をついた。誰かが追ってくる。だがここで捕まるわけにはいかなかった。追っ手を全速力で振りきり、利明は駐車場へと向かった。