麻理子はその動きから目を離すことができなかった。
ほかには何も見えなかった。視界全体が蛇口の先端に収束されている。蛇口は人差し指くらいの細さしかない。その先端はなにかを排泄《はいせつ》しようとしてそのまま止まってしまったかのようにふたつ段々がついている。その先から透明なものが、緩やかに、緩やかに現れる。まわりの景色がその表面に映っている。洗面台が、白い壁が、麻理子の顔が、その中に閉じ込められている。それは見つめているとどんどん膨らんでゆく。そして品がないくらいまで大きくなると、一瞬涙の形を浮かべ、そして
|ぴたん《、、、》
と落ちる。
その音は、あの足音を連想させた。
夢の中に出てくるあの音だった。廊下の向こうから歩いてくるぺらぺらのビニールスリッパ、その遅すぎる歩調、麻理子はようやくわかった、あの夢はこのことをいっていたのだ。あの足音の正体はこの水滴だったのだ。
|ぴたん《、、、》
また一滴垂れる。その瞬間には次の粒が蛇口から顔を出し始める。まったく同じことを繰り返してゆく。徐々に大きくなってゆき、その表面を震わせ、線香花火の玉のように|ぴたん《、、、》落ちる。次が蛇口から現れる。わずかに付着していただけのちっぽけな水は、やがて仲間を吸収し、ぷくりと垂れ下がり、蛇口の先端から離れて離れてとうとう千切れぴたん《、、、》ると思うときにはもう次の水滴が半円形にまで膨らんでおり、それもぶわりとひとつ大きく振動した直後には|ぴたん《、、、》落ちさらに新たな水滴がすでに泪の格好をして|ぴたん《、、、》それを追うように続いて落ちてゆ|ぴたん《、、、》くと残像が消えないうちにまた次|ぴたん《、、、》そして連続して|ぴたん《、、、》まるでフィルムが|ぴたん《、、、》早回しにな|ぴたん《、、、》ってゆくよ|ぴたん《、、、》うに後か|ぴたん《、、、》ら後へびたと水滴ぴたが濫れぴたて止まぴたらなぴたくぴたぴたなぴたぴたぴたりぴたぴたぴたぴたぴぴたびぴぴぴたぴぴぴぴぴぴぴぴぴぴぴぴぴぴぴぴぴぴぴぴぴぴぴぴぴぴぴぴぴぴぴぴぴぴぴぴぴぴぴぴぴぴぴぴぴぴぴぴぴぴぴぴぴぴぴぴぴぴぴぴぴぴ
ぴ。
爆発音とともに排水口から何かが噴出した。
麻理子は絶叫していた。だが瞳を閉じることはできなかった。瞼は開きっぱなしになっていた。瞬きができなかった。視線が固定されていた。しかし麻理子はなにが起こったのか一瞬理解することができなかった。ただ視界の中を何かが凄まじい速度で動いていた。水滴の音は足音だった、それが早くなってくる、どんどん早くなってくる、こっちへこっちへこっちへ近づいてくる、もうすぐこの部屋へやってくる、蛇口の中から現れる、そう思っていた。だが出て来たのは蛇口からではなかった。その下だった。洗面台の中からだった。それは排水口を破って出現した。赤茶けた汚水が一緒に噴出し天井を叩きつけていた。その水柱の中でそれは動いていた。麻理子はその全体を見ようとした。だが瞳のピントが蛇口に固定されておりそこから広角することができなかった。麻理子は歯を食いしばり瞳に力を入れた。誰かがサイレンのような甲高い悲鳴を上げていた。排水口が間欠泉のように水を吹き上げる音が聞こえてくる。その度に麻理子の体に冷たいものがかかる。麻理子の腎臓が嬉しそうに
どくん
と大太鼓のような音を立てる。
それは麻理子の全身に響き渡った。