「誰なんだ? どうして麻理子のことを知ってる」
安斉はその男に尋ねていた。十四歳の女で七月に腎移植を受けた者といえば、この病院では麻理子しかいない。男はそれを知っている。それどころか、麻理子が何か危険に晒《さら》されているということも知っている。
男はぼろぼろの衣服を纏《まと》ってはいるがその目は真剣そのもので、とても戯言《ざれごと》をいっているようには見えなかった。顔にも知性が感じられる。決して妄言《もうげん》を吐くような浮浪者ではないと安斉は判断した。安斉は警備員からその男を奪うようにしてその男の前に立った。男が問うてきた。
「あなたはいったい……」
「麻理子の父親だ。君のいった患者の父親だ」
「腎を移植した……?」
「そうだ。君、いま麻理子のことを話していただろう。どういうことなんだ。教えてくれ」
男の顔に驚きの表情が広がった。
「………良かった。お子さんがいまどこにいるかご存じですね」
「もちろんだ」
「そこへ案内してください。大変なんです、あなたのお子さんが狙われている」
「待ってくれ、君はいったい誰なんだ。麻理子のことを知っているのは何故だ」
「あなたのお子さんのドナーがぼくの妻だった」
「なんだって……?」
安斉は絶句した。その男の顔を見つめる。麻理子のドナーの夫?
安斉はドナーの顔を見たこともなければその名前すら知らなかった。交通事故で亡くなった二十五歳の女性、それしか吉住から聞かされていなかった。また安斉自身も知ろうとはしなかった。安斉はこれまでドナーというものについてあまり考えを巡らしたことがなかったのだ。そのためこうしていきなりドナーの夫と名乗る男が現れても現実感がなかった。
しかし安斉は信じることにした。麻理子が危険だというこの男を無視するわけにはいかなかった。
男は永島利明と名乗り、そして切迫した表情で安斉に訴えてきた。
「ぼくのせいで大変なことが起こってしまったんです。とにかくここでぐずぐずしている余裕がない。お願いです、病室まで案内してくれませんか」
「何が起こるっていうんだ」
「それはあとでお話しします、はやく!」安斉の袖口をつかんでくる。
警備員が気色ばんだ。ふたりを離そうとする。
「ちょっと待つんだ、いったい何をいってるんだ? とにかくここは……」
利明が警備員に体当たりを食らわせた。
不意打ちをくらい、大柄の警備員もよろめいてしまった。その隙《すき》に利明が安斉の腕を引っ張った。
「どっちです、病室は!」
「右だ」
安斉は答えた。利明が走り出す。安斉も駆け出した。案内するように利明の前に出る。
「待て、おまえたち!」警備員の怒号が後ろから響いた。だが安斉は利明と廊下を駆け続けた。
走りながら、安斉は利明に訊いた。
「なにがあったんだ。麻理子になにをした」
「妻の細胞の中にとんでもないものが寄生していた」
「寄生? バクテリアか? 麻理子は何かに感染したのか」
「そんなところです。でもそれだけじゃない、もっと酷《ひど》いことになってしまった。ぼくは妻の細胞を持っていた。それが力を持ったんです」
安斉には利明がなにをいっているのか意味がつかめなかった。だが麻理子の腎が普通とは違っているということについては無条件で信じた。昨日麻理子が発作を起こしたとき、ちょうど腎を移植したあたりが海老のように撥《は》ねるのを思い出したのだ。
「そいつは特殊な力を持っています。火を起こすことができる。自分の姿を自由に変えられる。そいつはこの病院へやってくるはずです」
「やってくる?」
「下水管を通って」
「それだ!」安斉は叫んだ。
「知ってるんですか、それを!」
「あの扉の前で聞いたんだ。すごい音だった。五分くらい前だ」
「それでどうしたんです、その音はどこへいったんです!」
「この病院の中に消えていった」
「……なんてことだ」
安斉は廊下を曲がり、階段を駆け、さらに廊下を進み、病棟へ向かって走った。利明は黙ってしまった。その沈黙が事態の深刻さを物語っていた。よくわからないが麻理子にとてつもないものが迫ってきている、麻理子が何かに狙われている、その緊張感だけが痛いほど伝わってきた。安斉はそれに衝き動かされ、息を切らしながら全速力で駆けていった。警備員が助けを呼んだのか、はるか後方でばたばたと複数の人間が走る音がした。