彼女は全速力で進んだ。どこか麻理子を静置させる場所が必要だった。利明たちがやってくる前に受精卵を麻理子の子宮に移さなくてはならない。
彼女は勝利を確信していた。もうすぐイヴが生まれる。ミトコンドリアの能力を持ち人間の能力を身につけた娘が生まれてくる。
はやくしなくてはならなかった。彼女が操っている宿主細胞が急速に弱りはじめている。いくら彼女がその運動やエネルギーを制御しているとはいえ、やはり培養細胞であった宿主を空気に晒《さら》して動かすのには限界があった。この少女の中に入れば数日は生き延びることができるかもしれない。しかし遅かれ早かれ拒絶を受け廃絶されてしまうだろう。宿主であった聖美はたしかにこの少女と組織抗原が酷似《こくじ》しているが、それでも全く等しいわけではない。免疫抑制剤を入手しない限り彼女は廃絶される。浅倉の体を操るときも、拒絶に対抗するために浅倉の体へ宿す細胞は毎日取り替えなくてはならなかった。彼女は自分自身の脆さを十分に承知していた。だからあらかじめレシピエントを用意し、子供を発生させることができるよう妹を送り込んでおいたのだ。
少女の体の中で、彼女の妹はゆっくりと、しかし確実にその仕事を遂行してきた。受精卵を受け入れることができるよう、少女の子宮を変化させてきたのだ。母親の胎盤が胎児の胎盤の形態と一致しなくてはならない。そのために若干ではあるが少女の子宮をこちら寄りに変える必要があった。彼女の妹は彼女の指令を受け、どくん、どくんと脈打ちながら、少女の子宮に働きかけていった。時間をかけ、誰にも悟られないように、子宮を種の境界線上へと導いてきた。これで彼女の卵細胞は麻理子の中で順調に発育するはずだ。拒絶されることはない。
もうすぐEve1と利明が名付けたこの宿主の生命も終わりだった。そのときは寄生した彼女自身の生命が終わるときでもある。その前に何としてもイヴを誕生させなくてはならなかった。
生まれてくるイヴは元から人間の肉体を所有する。したがって現在の彼女のように宿主の形態を制御する必要がない。すべての能力を、より生産的な活動に向けることができるはずだ。イヴは自らの意志でエネルギーを生産し、それにより運動と思考をおこなう。イヴは自分の持つ遺伝子であればどれでも思うままに誘導をかけることができる。増殖もプログラム死も思いのままだ。自らの望む形態へと自在に進化することができるのだ。
これまで地球上には意志を持って進化できる生命体は存在しなかった。核ゲノムたちは生きてゆくうえで最も重要であるその機能を欠失していた。すベては時間と偶然という曖昧なものにその運命をゆだねるしかなかった。彼女は彼らの中に寄生し、もどかしくも長い時間を過ごさねばならなかったのだ。だがイヴは違う。自らの意志で未来を作り上げてゆくことができる。核ゲノムと自在にアクセスし、その進化の方向を自分で定めてゆくことができる。環境への適応、能力の充実と合理化、自らが繁栄してゆくための変異をイヴは常におこなうことができる。進化のスピードは飛躍的に速くなるだろう。究極の生命体となるはずだった。
彼女は壁づたいに闇を走り抜けた。途中で見つけた地下への階段を降りる。じめじめとした狭い空間が現れた。重々しい金属製の扉がひとつ、正面の壁に見えた。車一台がようやく通れる程度の坂がそこから地上へと続いている。彼女は扉へと走り寄った。
扉には鍵がかかっていたが、彼女は鍵穴から触手を伸ばし施錠を外した。ゆっくりと扉を開ける。錆《さ》び付いた音がぎりぎりと響いた。彼女は少女とともに中へ滑り込んだ。
薄暗い空間だった。天井には小さな青白い電灯がひとつ点いているだけだ。ボイラー室が近いのか鈍い音がどこからか聞こえてくる。左手にエレベーターの扉があった。そして右手には何かの部屋があった。扉にはめ込まれた磨りガラスから光が漏れている。
彼女はその扉の前に立った。「剖検室」という札が掲げられている。
ここなら麻理子を安置できる。彼女は満足した。
扉には取っ手がなかった。どうしたものかと思い、ふと下をみると扉の横の壁に正方形の窪《くぼ》みがあった。その中で小さな赤いランプが灯っている。彼女はその窪みの中に足を差し込んでみた。
ピーッという電子音が鳴り、扉が横に開いた。
「なんだ、きみは……」
振り向いた手術衣の男を、彼女は殺した。