利明はこれまでの経緯を吉住と安斉にかいつまんで説明した。その間ふたりは何度も目を剥いて驚きの声を上げた。だがその一方で、両者とも思い当たるところがあるらしく、利明の話を全面的に信用してくれた。吉住は麻理子に移植した腎の生検でミトコンドリアが異常に発達していたことや手術中に不思議な熱さを感じたことを打ち明けた。
「その熱さはぼくも感じたことがあります」利明はいった。「恐らく奴は、他人の細胞の中に存在するミトコンドリアとコンタクトを取ることができるんだと思います。そしてそのミトコンドリアたちをある程度は意のままに動かすことができるんじゃないか。もちろんわれわれの体の中にあるミトコンドリアは、奴とは違ってまだ最終進化していないので通常の働きしかすることができないのでしょうが」
「そうだとしても、どうしてあいつは火を熾《おこ》すことができるんです」安斉が疑問を口にした。
「わかりません。しかしこういう憶測はできます。ミトコンドリアというのは体中の細胞の中にある。もしそのすべてが一斉にATPを生産しはじめたとしたらどうです。そしてそれがか完壁《かんぺき》にエネルギーへ変換されたら。莫大な熱量になる。どうやって発火させるのかはわからない。が、もしかしたら体中の細胞を猛烈なスピードで振動させるのかもしれない。その摩擦《まさつ》熱で火を熾す。ぼくらが熱さを感じたのもそれと似たようなものだったんでしょう」
「……信じられない」吉住は目を瞠っていた。
Eve1が逃走してから五分ほどが経過していた。警報ベルはようやく解除された。警備員が通信機のマイクに向けて次々と指示を出している。しかしまだ発見の知らせはない。痺《しび》れを切らして利明がいった。
「ぼくらも探しにいきましょう。ここでじっとしているのは耐えられない」
「その通りだ」
利明たちは部屋を飛び出した。とりあえずエレベーターのある場所まで走る。安斉は悲愴《ひそう》な表情を浮かべていた。娘の名をつぶやき続けている。利明は走りながらいった
「奴はおそらくまだこの病院にいます。奴は麻理子さんを安静にしておく必要がある、だから遠くへは行ってないはずです。吉住さん、奴が隠れるとしたらどこだと思いますか」
「それこそ隠れる場所はいくらでもある。医局、病棟、検査室、とてもわれわれや警備員だけでは捜査しきれない」
「実はひとつ心配に思っていることがあるんです。ミトコンドリアは個体の発生分化を促進させる作用を持っている。奴はその機能を進化させているかもしれない」
「……どういうことだ、それは」
吉住は顔をしかめた。利明のいっている意味がわからないようだった。
「つい最近、ショウジョウバエを使った実験が報告されたんです。卵細胞の中でも後に生殖細胞になる部分ヘミトコンドリアのリボソームRNAを注入すると、そこの細胞の分化が促進された。それだけじゃない、産卵時には確かにこのミトコンドリア・リボソームRNAが卵の細胞質に出て生殖細胞の分化を誘導していることがわかったんです」
「………?」まだ吉住には飲み込めない様子だ。
「ミトコンドリアは個体の発生分化の鍵を握っているということです。ヒトではまだ報告はありませんが、その可能性は十分にある」
「つまり……、奴は思いのままに受精卵を発育させてゆくことができるというわけなのか?」
「それを心配しているんです。あれだけ自在に宿主細胞の増殖をコントロールできるんだ、受精卵をごく短期間で成長させることもできるのかもしれない」
「はやく見つけないと掻爬が困難なまでに子供が成長すると……?」
「やめてくれ!」安斉がぼろぼろと涙を流しながら叫んだ。「そんなことがあるわけない! 麻理子が化け物を産むだと! あの子はまだ十四歳なんだぞ!」
エレベーターホールに着き、利明はボタンを押した。階を示す光がゆっくりと上がってくる。
「警備員たちはどこを捜査してるんです」利明は息を切らしながら吉住に訊いた。
「病棟だ。ひとつひとつ部屋をまわっている。とりあえずほかの患者が被害を受けていないか調べるということらしい」
「麻理子をつれているんですよ、もっと人目につかないところに行っているはずだ!」安斉が声を上げた。
「それに生まれるまでは奴も母体に負担をかけたくないはずです。人がいなくて、しかも人を寝かせて置く場所があるところだ」利明が補足する。
「それにしたってそんな場所はいくらでもある。事務室のソファ、CTスキャンの台、倉庫にあるストレッチャー、脳波検査室、手術室、霊安室、剖検室……」
最後の言葉で、三人がはっと顔を上げた。
同時にエレベーターがチンと音を立てて到着した。