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鬼平犯科帳の人生論03

时间: 2019-07-30    进入日语论坛
核心提示:● 愛情の表現は、短く控えめに[#ここから5字下げ]「久栄《ひさえ》」「はい?」「ちかごろは」「ちかごろは、何でございま
(单词翻译:双击或拖选)
 ● 愛情の表現は、短く控えめに
 
[#ここから5字下げ]
「久栄《ひさえ》」
「はい?」
「ちかごろは……」
「ちかごろは、何でございます?」
「大分《だいぶん》に……」
「大分に?」
「肥《こ》えたな」
[#ここで字下げ終わり]
[#地付き]「毒《どく》」
 
 思わず、「プッ」と笑ってしまった。やるね、平蔵。
 さて、西洋人は人前であっても配偶者を褒めるという。知り合いのアメリカ人夫婦を見ていてもたしかに頷ける話だ。「シェリル、きみのお尻、ほんとにキュートだね」「ありがとう。あなたの指づかいだって、ステキよ」などとやっている。
 日本人は、だいぶ変わってきたとはいえ、この点においてはまだまだであるようだ。夫は妻を「愚妻」と呼び、あからさまに「器量よしじゃない」と公言することがあり、性格を評して「きつい女でして」などと露骨にいうこともある。また妻は妻で、夫のことを「太ることだけが得意でして」とか、「もう少し稼いできてくれるといいのですが」などと口にして臆面もない。「西洋人が見たら、日本の夫婦はほとんどが離婚寸前に見える」といわれるが、日本人の夫婦が互いを貶《おとし》めるのは、愛し合っていないというのではなく、人前でいちゃいちゃすることが下品だと思っているからであり、へりくだることが美徳だと考えているためである。つまり、たんに愛情を人前でおおっぴらに表現しないというだけのことだ。
 日本人は感情をおもてにださないと批判されて久しいが、小生にいわせれば、それがどうした、である。小生はむしろ派手に感情をあらわすことのほうが見苦しいと感じる。そう育てられもしてきた。愛情は真率になればなるほどその姿を隠したがるのだと。
 私の父は大正生まれで戦地に赴いたが、何年かぶりで無事に帰ってきたとき、感涙するでもなく、玄関先でひとこと、「帰ったよ」とボソッといったという。待っていた家族は「おかえり」と口々にいい、祖母(父の母)は「荷物、重くなかったか?」とさして意味のないことをいったそうな。そして父は無愛想に「うん」とか「ああ」とこたえたそうだ。九死に一生を得て戻ってきた息子に、穏やかにほほ笑みかける表情や、荷物をおろすのに手を貸すしぐさにこそ、言葉にならない深い愛情を小生は感じるのである。歓喜は、花びらのように広げられた両手や身にあふれだす叫びのみによってあらわされるものではない。
 夫婦にしてもそうだ。昨今、「言葉にしなくても愛は伝わる、と考えるのは夫たちの怠慢」という妻たちの声を耳にするが、�妻�という字が�毒�に見えるのはこうしたときだ。なんでもかんでも言葉にしようとしたら、虚言と誇張が氾濫するのは目に見えているではないか。冷たい温もりを感じるぐらいがちょうどいいのではないか。
 妻に向かって、目を合わせず、「ちかごろは……大分に……肥えたな」とポツリといえるほどの仲こそ、あらまほしい夫婦の関係である。
 それにしても、かいがいしく動きまわる妻の姿がどれほど暑苦しく感じられたとはいえ、よくもこのような発言を平蔵は妻に向かって吐けたものだ。現代の夫婦では、誠実かつ真摯な謝罪をもってしても、関係の修復にはだいぶ時間がかかるであろう。ひょっとしたら、臨死体験をする夫だっていそうである。
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