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他の役職とはちがい、命がけではたらき、手柄をたてたところで、格別の昇進があるわけではないのが火付盗賊改方なのだ。
それでも尚、盗賊の追捕《ついぶ》に彼らが熱中するのはそこに彼我《ひが》の生なましい闘争があり、その闘争の中で、男としての情熱をたしかめることができるからなのであろうか……。
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[#地付き]「網虫《あみむし》のお吉《きち》」
経営環境が厳しくなると、経営者の頭にまず浮かぶのは徹底した「成果主義」の採用であるらしい。
いまのニッポンを見渡すと「成果主義」はあたかも落ち目の会社を延命させる起死回生の万能薬のような扱いである(それにしても、法人としての日本国は金持ちなのに、なぜそろいもそろって個人はこうも発想が貧困というか貧乏たらしいのか)。
何らかの閉塞状況を打破しようとするとき、人は「極端」と「徹底」を好み、性急に白黒をつけたがるが、昨今の「成果主義」ほどこのことをわかりやすいかたちで見せてくれたものはない。
いうまでもなく、「成果主義」の目的は社員のやる気をあおって会社の業績を向上させることにある。が同時に、成果をあげぬ社員をあぶりだして人員を�整理�することもその射程に入っている。
といって、これ自体べつだん責められるべきものでもない。経営学を少しでもかじった者ならば知悉《ちしつ》していてとうぜんの知識である。小生も片手を上げて賛成しよう。だが、もういっぽうの手は下ろしたままでいたい。
なぜというに、「成果主義」には大きな落し穴があるからだ。
ひとつには、会社が「人物」を失う可能性が高くなるということだ。どういうことかというと、「成果主義」の徹底は長期雇用がもたらす社内での人格|陶冶《とうや》を放棄することにつながるため「人物」が育ちにくく、長い目で見れば大きな不安定要因を内部に抱えこむことになる(たとえば後継者なるものは、社内で「育てる」ものではなく、社外から「見つけてくる」対象となるであろう)。
いまひとつは、「成果主義」を徹底した場合、一度達成された成果はそれが水準と見なされ、より高い目標を次から次へと要求されることになるため、過度の心理的圧迫を誘発することになる。結果、心身の健康をそこねてしまう者が大量にでてくる。
さらにいえば、「なにをやったか」だけに関心が向けられ、「なにをやりたがっているか」に目を向けられることがなくなるため、やりがいを見失う社員が多数あらわれる。
むろん、これを仕掛ける経営者側だって安穏としてはいられなくなる。高い成果をあげたときに転職して自分を高く買ってもらおうという集団が社内に形成されるため、優秀な社員を失うリスクをつねに背負い込むことになる。
「企業とは利益をあげるための集団である」というあたりまえの前提を踏まえたうえであえていうのだが、「成果主義」の採用はあるべきだが、徹底すべきではない、と小生は考える。なぜというに、平蔵の火付盗賊改方がそうであったように、人は成果のみにて生くるものではないからである。
そこで社長さんたちにこっそりと耳うちしたいことがある。
もっとも効率よく人を減らす方法は──人を育ててしまうことです。