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「それがさ、尻を押えて、|びっこ《ヽヽヽ》をひきひき……」
「なんだと?」
「どうも野郎、ひどく痔が悪いらしいので」
「痔もちの盗人か、それはおもしろい」
「それでね、銕《てつ》つぁん、野郎、なかなか|ふんぎり《ヽヽヽヽ》がつかねえようだ」
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[#地付き]「泥亀《すつぽん》」
お読みいただいたように、老密偵・彦十も、現代ニッポンに生きるわたしたちと同様、下ネタのジョークがたいそう好きなようである。ずっこけるね。心胆を寒からしめる、じつにくだらない労作だ。まあ、彦十らしいけど。
「日本人はユーモアの精神が欠如している」といわれて久しいが、読者諸氏もそのようにお考えだろうか。たしかにわたしたち日本人は、「公」の場ではあまりユーモアの精神を発揮しない。おそらく「公」の場で笑うことを不真面目な心情としたのは儒教や武士道の影響であろうが、それはたんに相手を軽々しく馬鹿にすることを戒める心の態度であって、それがすなわち「日本人はユーモアの精神がない」ということに結びつくものではない。
じっさい真面目な表情のうちを覗いてみれば、日本的湿潤はいくぶん強く感じられるものの、滑稽やら諧謔《かいぎやく》を愛する精神がそこかしこに蠢動《しゆんどう》しているのが見てとれる。それは小生の大好きな落語ひとつとってみても首肯できることだ。
しかし、残念なことに、ユーモアの精神を「公」の場から「私」の場に追いやってしまったがために、多くの日本人はその本来の意味とルールを誤解してしまったようだ。
結果、「ごちそうさま。いやあ、うまかった。牛負けた」とか「ライスがないと、つらいッス」というようなお粗末な駄洒落《だじやれ》が蔓延し、「バイアグラ、水割りで」とか「おれ、紅顔の美少年じゃなかったけれど、睾丸が美少年だったんだよなあ」などの滑稽にして|しまり《ヽヽヽ》のない下ネタが多くなり、ともかくひとたび駄洒落癖を患ってしまえば、「ユーモアのある人ね」ということになってしまった。脳皮が痙攣《けいれん》するね。
そこにはありふれた世界観を一瞬にして転倒してみせようという意気込みも、奸智《かんち》に長《た》けた自分自身を嗤《わら》ってみせる知性も、露骨な言葉に薄化粧をほどこそうとする行儀のよさもほとんど感じられない。真に「ユーモリスト」といえる人が圧倒的に少ないのだ。
では、機知に富み、奇を衒《てら》った辛辣なユーモアを数撃てばユーモリストになれるかといえば、それもまたちがう。
世に「ユーモリスト」なる尊称をいただく御仁は、批判の精神をもって寸鉄人を刺す言葉で社会や人間を見事に茶化してみせるが、そのときひとつのルールだけは厳しく守るのである。
そのルールとは、滑稽の言葉を投げつける相手が権威社会や特権階級に生きる強者に限られるということだ。彼らの暗愚や劣弱や非力を笑うのはいい。だが、弱き者、愚かな者、幸うすい者を茶化すのはユーモアのルールに反している。権威や強者のおかしさが、ひょっとしたら自分のおかしさではないかと思いつつ、軽妙かつ自嘲的に語れる人が真のユーモリストなのである。