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「ほれ見ろよ、お長。お富の手のゆびは千人……いや万人にひとりのゆびだ。こいつ仕込んだら大《てえ》したものになるぜ」
と、定五郎がお富の手ゆびの如何《いか》に掏摸《すり》の素質をそなえているかを発見するや、
「なるほどねえ。仕込んでみようか」
お長も双眸《りようめ》をかがやかせた。
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[#地付き]「女掏摸《めんびき》お富《とみ》」
引用した例はいささか不穏当であるが、どんなに軽視してみても、やはり才能というものは厳然として存在するようだ。
大きな才能をまえにして自分の夢が音をたてて崩れていく……じっさいそうした残酷な現実に遭遇したことのある読者もけっこういるのではないか。
才能──いったいこの天与の資質はどのようにして世に立ちあらわれてくるのだろうか。天与の資質なのだから、そのまま放っておけば勝手に伸びるのか。そうではないだろう。「玉|磨《みが》かざれば光なし」というではないか。才能だけで世にでることは、金持ちが神の国に入るほどに難しいものだ。
才能というものは、それ自身で勝手に花開くものではない。「見られる芽」は「見る目」があってはじめて蕾《つぼみ》になり、またほころびるものなのだ。
「人は好んで才能を云々したがるけれど、個人の才能とは実のところ伝統を学ぶ学び方の才能にほかならない」と述べたのは『文章読本』での丸谷才一氏だが、言い換えれば、才能の主とは、伝統を知る知者によって見いだされ、養分を与えられ、剪定《せんてい》をされて開花するものである。
それが証拠に、天才的な素質をもちながら「運命的な出会い」がなかったばかりに芽がでなかった人ならいくらでもいる。あるいは才能を開花させるかに見えたのも束の間、急に萎《しお》れてしまう人もあまたいる(たとえば、野茂投手やイチロー選手は、仰木彬監督との出会いがなかったら、ともに芽がでなかったであろうと多くのスポーツジャーナリストにいわれている。また仰木監督自身も、西鉄ライオンズ時代に�知将�三原脩監督との邂逅《かいこう》がなかったら、「仰木監督」は存在しなかったであろうと囁かれている)。
才能をもった人間がしぼんでしまうのは、人生の妙が織りなす幾多の幸運な出会いを忘れて自分ひとりの力で大輪を咲かせたのだと思い込んでしまうせいである。これもまたよくある残酷な事例だろう。
また、才能というものは、他人に嫉妬されないようにうまく発揮してこそ、咲き匂うものである。才能の持ち主を嫉妬の毒牙からうまく離してやるのも、そばについている人間のやることであろう。
こう考えると、「才能を見いだし育てあげる才能をもった人」はもっと評価されてよいのではないか。
むろん、これは芸術やスポーツの分野にかぎったことではない。会社組織においてもそうだ。人事を司《つかさど》る人間は「才能を見いだし育てあげる才能をもった人間」にこそ、人事的視線を投げかけるべきであろう。それでこそ「敏腕人事部長」といわれるのにふさわしい。人事の妙とは、「才能のある人間」と「才能を育てあげる才能をもった人間」をめぐりあわせることにある。