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牢屋に詰めている同心へ、茶を運ぶつもりだったのであろう。
湯呑みは石畳に音を立てて、割れ散った。
その割れ散った湯呑みを、長谷川平蔵が凝《じつ》と見据えた。
「こ、これは、どうも、とんだことを……」
庄七が狼狽《ろうばい》し、身を屈《かが》めて湯呑みの破片を拾いはじめた。
平蔵は背を向け、通路を歩み出している。
(おもい出したぞ、石川の五兵衛)
平蔵の片頬に、微《かす》かな笑いが浮いた。
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[#地付き]「瓶割《かめわ》り小僧《こぞう》」
休息は欠かしてはいけない。
どんな仕事であれ、どんな恋愛であれ、日曜日は必要である。
リラックスすると、からだが休まるだけではない。天啓ともいえる「ひらめき」がとつぜん飛来することがあるからだ。
「現代人は頭が悪い」ということを示す例として、頭を過信しすぎるということがある。なんでもかんでもとにかく考え抜けば、結論や妙案が導きだせるのだと思い込んでいる。結果、休息もとらずについ頑張りすぎてしまう。はっきりいおう。休息の効用については、もう少し頭をつかいなさい。
おうおうにしてハタと膝をうつようなひらめきは、机に向かって格闘しているときよりもむしろ、それを期待していないのんびりとした時間に飛来してくることが多いようだ。
四六時中ずっと考えても解決の糸口が見いだせないときは、しばしそこから離れて「あたためて」おく。すると、知らないうちに発酵をはじめ、ひょんなきっかけから思いがけない手がかりが頭に浮かんでくる。こうした天来の着想については、新商品の開発者や発明家の多くがもっている経験でもあろう。
とはいえ、むやみやたらと息抜きをすればいいかというと、むろんそうではない。
果報は練って待て。
ひらめきは、準備している者にしか訪れないものだ。
言い換えれば、ひらめきは、準備している者のもとへはかならずやってくる律儀な小鳥なのだ。準備をしていない者は、灰色の脳細胞は灰色のままだし、鈍色《にびいろ》の眼はいつまでも鈍色のままであろう。
ひらめきは、日々の努力と研鑽《けんさん》があってはじめてやってくるのであって、精励や熱意のないところに残念ながらひらめきはノックさえもしてくれない。平蔵が割れた湯呑みを見て、盗賊の名まえを思いだしたのも、長考のあとのリラックスがもたらしたものにほかならない。
ひらめきは、九十九パーセントの努力と一パーセントの休息なのだ。
ついでにいうと、猪突猛進型の人間は「休むこと、すなわち怠けること」と考えており、「がむしゃらに働いて、がむしゃらに寝る」ことを誇らしげに語ることがしばしばあるが、そういう人にかぎってリラックスするのがヘタで、しまいには神経をすり減らしてしまうようである。とうぜんひらめきも遊びにきてはくれない。
気分を一新させる術《すべ》を知らないと、非能率であるばかりか、しまいには自律神経に支障をきたしてしまう。集中したら休み、休んだらまた集中する。その緊張と弛緩《しかん》の連続が、啓示や天祐を喚び込むようだ。