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(まさに、池田又四郎《いけだまたしろう》じゃ)
得心《とくしん》をした。
となれば、なつかしさにたまらず、すぐにも襖を開けて、
「おい、又四郎。どうしていた?」
声をかけねばならぬはずだ。
しかし、平蔵はうごかなかった。
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[#地付き]「霜夜《しもよ》」
平蔵のむかしなじみ、それも弟のように可愛がった男が、たまたま立ち寄った料理屋の隣座敷にやってきた。二十数年ぶりに聞くなつかしい声だ。
だが、平蔵は声をかけない。それは声に「むかしのままの又四郎だとはおもえぬものがこもっていたから」である。平蔵は、料理屋をでていく又四郎のあとを尾《つ》けて行けるように仕度をととのえはじめた……。
こんなときにも最悪のことを考えるのが、われらが長谷川平蔵だ。
読者諸賢よ、この平蔵の行動の背後にあなたは何を見るであろうか。小生には、ここに「人生で失敗しないための大きなヒント」が隠されているように思えるのだが、どうであろうか。
一般に、「ストレスを軽減し、心の平静を保ち、集中力を高めるためには、悲観的にならず、つねに楽観的な態度をとるのが望ましい」とされる。なるほど、ひとつの見識であろう。
だが、ものごとを楽観的に考えれば、きまって望ましい結果が得られるかというとそうではない。自信のもてないものに、いくら自分に都合のいいように言い聞かせてみても、しょせんはその場かぎりの気やすめにしかならない。ごまかしでは、しょせんごまかせないのだ。では、悲観するのもだめ、楽観するのもだめとなったら、いったい何をどうしたらいいのだろう。
以下に、これまで世にまったく知られることのなかった小生の処世術を披露しよう。
それは──と、もったいぶることもないのだが、
「最悪のときに最高のことを考え、最高のときに最悪のことを考える」
というものだ。最悪の事態に直面したときは楽天家になり、最高だと思えるときには悲観的なものの見方をする人間になるのである。
たとえば、最悪のときには「これは好転の予兆かも」と考え、最高のときには「ひょっとしたら大失敗の前兆かも」と戒めるのだ。つまり、有頂天や上機嫌は落胆のときのためにとっておき、自省とか後悔は元気なときのために温存しておくのだ。
一見、ヘソ曲がりの発想に思われるかもしれないが、これこそが人生で大過なく生きていくための知恵であると小生には思われる。
大きな失敗をしない経営者は、小さな冒険をするときでさえもかならず最悪の事態を想定してから行動するという。彼らは「考えたくないことをどれだけ考えられるか」が勝負の決め手になることを熟知している。また、そうすることで、油断を遠ざけ、精進《しようじん》を怠らないでいられることを知っている。
嗚呼《ああ》、それにしても、ここまでしなくてはいけない人生とは、ほんに難儀であることよ。