[#ここから5字下げ]
翌日。勘助《かんすけ》はおたみに「仲のいい友達が病気で困っているから、たのむ」といい、かきあつめた一両をつかんで、役宅からの帰りに秋元屋敷へ飛んで行った。このときは明け方までに一両が八両ほどになった。それがまた、いけなかった。
[#ここで字下げ終わり]
[#地付き]「白《しろ》い粉《こな》」
わたしたち現代人は、未曾有《みぞう》のストレス社会に暮らしている。
戦いや競争を強いられ、気がつけばいつのまにか自分自身も非難や中傷、衝突や軋轢《あつれき》、嫉妬や羨望が入り交じった大渦の中に巻き込まれている。そのうえ大半の人間はカネがないときている。財布軽ければ、そう、心は重い。「明日の希望より今日の一万円」を求めてさまよっている。
これでストレスをためるなというほうが無理である。勘助のように博奕《ばくち》に興じる人間がいても頭ごなしに責めるわけにはいかないであろう。考えようによっては、ギャンブルはストレスが充満する現代社会においては必要悪ともいえるのかもしれない。
ギャンブルは魅惑的だ。「神意」を知る神聖な行為でもあるから、人を勇気づけたり慰めたりする力も備えている。が、魅惑的なものは、同時に幻惑的でもある。深追いしなければギャンブルはいつまでも友人でいてくれるが、自分のものにしようとしたら最後、一転してその性悪ぶりを剥《む》きだしにする。欲が顔を覗かせたその瞬間、ギャンブルはここぞとばかり、あなたの弱みにつけ込んでくるのだ。
そもそもギャンブル産業は「ギャンブルには必勝法がない」という条件のもとに成り立っている(必勝法があれば、それはギャンブルではない)。ゆえにギャンブルにおいては、一時的には儲かることはあるにせよ、回数を積み重ねていけばいくほど「儲かるわけがない」のである。しかしこれを承知で、人はギャンブルにのめり込む。
なぜか。それは欲があるからだ。しょせん人間は勘定《ヽヽ》の動物。運をためしているだの、願をかけているだの、夢を買っているだのと口ではいろんなことをいうが、要は「自分だけは儲かるかもしれない」という願望を秘かに抱いている。
ギャンブルの狙い目はそこだ。冷静さを失って射幸心を見せたその隙《すき》に、ギャンブルはあなたに取り憑くのだ。浅き夢見し射幸心。気がつけば、ギャンブルに浸蝕されているというわけだ。
ギャンブルの餌食にならないためには、「ギャンブルで生計を立てない。ギャンブルで借金をしない」と自分に強く言い聞かせることだ。「たとえ小金であろうとも、いっさいの寸借はしない」と自分に誓うのだ。それから、負けても「ぜったいに元をとってやる」とか、「一円でもいいから勝ち越してやる」などと息巻かぬことである。どんなに悔しくても、椅子の上に立って獣のごとく咆哮《ほうこう》するぐらいにとどめておくことだ。勝ったら大喜びし、負けても「いやあ、楽しませてもらったよ」といえるくらいのゆとりをもってやるのがよい。あくまで�遊び�でやることだ。これを守れない人は、ストレスを蓄積し、明るさを失い、自分に愛想を尽かし、他人からも愛想を尽かされ、人相を悪くし、自暴自棄になり、最後には……向かうところカネなし、身を持ち崩すことになる。
いにしえより「お金をためるコツは二つある」といわれている。それは「コツ、コツ」である(失笑)。