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「婆さん。笠をかぶっているのに、よく、わかったな」
「なあに、笹やのお熊の眼力は、むかしのままだ。お前さんもすこし肥ったが、歩きっぷりはむかしのままじゃあねえか」
と、お熊は、いま江戸市中に隠れもない長谷川平蔵へ、遠慮会釈もなく、
「何も銭をとろうたぁいわねえ。茶の一杯ものんでいきな」
「そうか。では、ちょっと……」
苦笑をかみしめつつ、平蔵は〔笹や〕へ入って行った。
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[#地付き]「寒月六間堀《かんげつろつけんぼり》」
ある会合からの帰途、顔見知りの数人が連れだって一杯やることになった。ざっくばらんな席だったのだが、話題が「おまえは何が怖いか」に移ったときに見せた、その場に居合わせた者たちの表情は、小生に多大なる感興を与えずにはおかなかった。はじめのうちは、「出世をあきらめたサラリーマンかな」とか「わたしコワいものがないのよ、という妻だよ」などの秀作が提出され、笑いにつつまれたなごやかな雰囲気だった。そこへ突如、
「過去を知る人」
という声があがったのだ。一同、寂《せき》として声なく、私はといえば、手にしたジョッキをそっとテーブルに置いて、小さく呻《うめ》くばかりであった。
人は誰も他人にはいえぬ暗黒の過去があるらしい。そこに居合わせた、ハタから見るとさまざまなことに恵まれていると思われる友人のYでさえ、ついに辛抱たまらずといった表情で「自分の過去を知らない人のなかで人生のやり直しをしたかったなあ」といったものだ。
恥多き若き日の種々《くさぐさ》を知る者は、それほどまでに人の心に暗い影を落とすうっとうしい存在なのだ。
平蔵にとって、頭があがらないのは、誰あろう、やはりお熊婆さんである。お熊婆さんは、平蔵の「恥ずかしい過去」を微細にわたって知っている人間だ。しかも、気どりや虚飾をいっさい受けつけない�突破者�ときている。
あるとき火盗改メの役宅にやってきたお熊婆さんは開口一番、
「おい、銕《てつ》つぁん。むかしなじみの、このお熊を庭先へ通すとは、あまりに|むごい《ヽヽヽ》仕うちじゃぁねえかよ。むかし、お前さんが勘当《かんどう》同様になって屋敷を飛び出し、本所・深川をごろまいていたころには、毎日のように酒をのませたり、泊めてやったりしたのを忘れたのかえ」
嫌味たっぷりに平蔵をからかう。度量のない火付盗賊改方の長官ならば、その場で打ち首であろうが、平蔵はむしろそれを愉しむところがあって、頭を掻《か》いたり照れたりして小さくなっている。平蔵がいいのは、年寄りとつき合い、若者ともつき合い、異業種の人ともつき合い、異性ともつき合い、犬や猫ともつき合い、季節ともつき合い、さらには「恥ずかしい過去」を知っている幼なじみともつき合っていることだ。そうすることで平蔵は、自分の傲慢さに歯止めをかけ、己れの無知を知り、健全な精神を保っているようである。
小生の見定めるところ、「人物」といえる人間の多くは、年寄りと話をするのが好きだし、「恥ずかしい過去」を知っている人とも気やすく語り合う人間である。限られた仲間だけとしゃべっていると、人は言葉を鍛えず、だんだん尊大になっていくようだ。高学歴な人ほど「頭が悪い」とか「思いやりがない」といわれることがあるが、それは彼らの多くが限られた仲間としかつき合っていないからである。社会や理屈は知っていても、世間や民情を知らないというわけだ。