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「妙義《みようぎ》の團右《だんえ》衛|門《もん》。おもいのほかに、早くあらわれたな」
「何じゃと……?」
「愛宕権現の水茶屋の女を、わしの密偵《てのもの》が見張っていたのを知らぬとは、いささか江戸の盗賊改メを嘗《な》めすぎたようだの」
「だ、だれだ?」
「長谷川平蔵だ」
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[#地付き]「妙義《みようぎ》の團右《だんえ》衛|門《もん》」
妙義の團右衛門は色狂いの兇賊である。ひと息つけば、もう女を物色している。平蔵はこのことを見抜き、とある水茶屋の女に網をかけていた。團右衛門にしてみれば、平蔵にばったり出くわすなど「たんなる偶然」としか考えられなかったであろうが、平蔵にいわせればそれは「偶然を装った必然」でしかなかった。
偶然と必然──わたしたちはこれら二つの織りなす物語に翻弄されながら生きている。
偶然を恃《たの》む人は運を天に任せ、必然の人は意志で人生を切り拓こうとするが、あにはからんや、偶然には必然が宿り、必然には偶然が憑依《ひようい》して、どちらも思うようにはいかない。
私ごとになるが、コピーライターの仕事をしている頃、会社経営者をはじめとするいわゆる「成功者」にインタビューする機会が幾度となくあった。そこで気づいたことは、彼らが申し合わせたように「運がよかった」とか、「偶然が重なっただけ」などいう言葉を口にすることであった。
論理的にものを考え、並みはずれた勤勉さを備え、先見の明を保持する、いわば必然の代表のような人の口から、「運」とか「偶然」という言葉が幾度となく洩《も》れるのだ。最初のうちはずいぶんと謙虚なことをいうものだと感心していたが、どうも本心からそう思っているらしいのである。
人生は有為転変《ういてんぺん》の連続である。予想のつかないことがたびたび起こる。だからといって、「明日をあてにして、今日をないがしろにする」という投げやりな態度をとるのでは知恵がなさすぎる。あるいはまた、これはこうして、あれはああしてと、すべて計画ずくめで事がうまく進行するとも思われない。
現代のように不確実で不透明な時代にあっては、偶然と必然、どちらかいっぽうに比重をかけすぎるのは賢明な人生態度ではない。
あてにもならぬ開運や僥倖《ぎようこう》をぐずぐずと待ち望み、偶然ばかりを頼りにしている人生では知恵がなさすぎる。人生をそんな刹那《せつな》主義的人生観で彩ってしまうのは、なんとももったいない話ではないか。
かといって、必然だけを追い求める人生は、融通がきかず壊れやすいものになってしまう(不満屋の多くは�もしかしたらなれたかもしれない自分�にしがみつく元必然派の闘士であることが多い)。
偶然とは偶然を装った必然であり、必然とは必然を装った偶然である。
こう考えてみてはどうか。
いささか奇を衒《てら》った言い回しに聞こえるかもしれないが、こうした構えをもてば、新鮮な目で人生を見つめることができ、また己れの人生をよりいっそう味わい深いものにできるように思う。