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つまり、それだけ多彩な人生を体験してきたからであろうが、いまになってみると平蔵、つくづくとこうおもうのである。
(つまりは、人間《ひと》というもの、生きて行くにもっとも大事のことは……たとえば、今朝の飯のうまさはどうだったとか、今日はひとつ、なんとか暇を見つけて、半刻か一刻を、ぶらりとおのれの好きな場所へ出かけ、好きな食物《もの》でも食べ、ぼんやりと酒など酌みながら……さて、今日の夕餉《ゆうげ》には何を食おうかなどと、そのようなことを考え、夜は一合の寝酒をのんびりとのみ、疲れた躰《からだ》を床に伸ばして、無心にねむりこける。このことにつきるな)
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[#地付き]「寒月六間堀《かんげつろつけんぼり》」
人生は闘争である。
小生も、しみじみそう認める。上になるか下になるか、右にそれるか左にはずれるか、それともがっぷり四つに組むか。人生はどこから眺めても|しのぎ《ヽヽヽ》を削る競争社会である。だが、その闘争で勝つ人と負ける人がいる、とあっさり言い切ってしまうのはいかがなものか。
このところ「勝ち組」とか「負け組」という言葉をよく耳にする。もともとはビジネスで成功して人もうらやむような高収入を得れば「勝ち組」であり、そのひと握りのおこぼれを頂戴するのが「負け組」であった。が、それがさしたる深謀遠慮もなく、人生全般にも拡大適用されるようになってしまった。まったく、現代のニッポンは悪い冗談に満ちている。いったい誰がこんな安直で浅薄な見識を世に広めたのか。この世の中にはさまざまな価値観をもった人がいることを知らないのだろうか。自分の価値観にしたがって生き、それをまっとうした人間が「負け組」なんかであるものか。ましてや、他人から敗残者呼ばわりされる筋合いなど毛頭ない。自分の人生の主役は自分であるべきで、またそうであるなら己れの人生の価値は、他人の評価によって決まるものではない。人生の価値や評価を決めるのはあくまでも自分であって、他人に判定してもらったり、異なる人生と引き比べられて優劣を決定されるべきものではないのだ。
己れの生き方にかかわる決断を他者に委《ゆだ》ねなかった者は、それがどんなにつつましやかな人生であれ、またどれほど小ぢんまりとした暮らしぶりであれ、「負け組」などではけっしてない。その意味では、人生の価値における要諦は、我流《がりゆう》に徹する決意にほかならないのだ。
人生は「見た目」や「効率」では判定できない。本人は無駄なく賢く生きたつもりでも、それが他人にはまったくうらやましくないことだってある。それを「おれたちは勝ち組だ」なぞと一方的に威張られても、ちっともうらやましくない。どうぞ勝手にやってくれである。それにしても、彼らには生きていること自体への漠たる不全感もないのだろうか。「おれは勝ち組だ」とうそぶいている人よ、もし人生というものに「負け」があるとしたら、それは自分自身が「負け」と認めた人生しかないのだよ。
「しかし、生きていると、疲れるね。かく言う私も、時に、無に帰そうと思う時が、あるですよ。戦いぬく、言うはやすく、疲れるね。しかし、度胸は、きめている。是が非でも、生きる時間を、生きぬくよ。そして、戦うよ。決して、負けぬ。負けぬとは、戦う、ということです。それ以外に、勝負など、ありやせぬ。戦っていれば、負けないのです。決して、勝てないのです。人間は、決して、勝ちません。ただ、負けないのだ」
こう述べたのは太宰治の自死を知らされたばかりの坂口安吾だが(「不良少年とキリスト」)、つとめて飄々《ひようひよう》といってのけるところに、安吾の抑えがたい哀しみが滲んでいる。いつ読んでも生きるということへのひたむきさに胸が衝《つ》かれる。