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鬼平犯科帳の人生論22

时间: 2019-07-30    进入日语论坛
核心提示:● 健全な警戒心をもて[#ここから5字下げ]「人というものは、はじめから悪の道を知っているわけではない。何かの拍子《ひよ
(单词翻译:双击或拖选)
 ● 健全な警戒心をもて
 
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「人というものは、はじめから悪の道を知っているわけではない。何かの拍子《ひようし》で、小さな悪事を起してしまい、それを世間《せけん》の目にふれさせぬため、また、つぎの悪事をする。そして、これを隠そうとして、さらに大きな悪の道へ踏み込んで行くものなのだ。おそらく、富田達五郎もそうだったのであろう」
 長谷川平蔵の声に、茂兵衛は何度も何度も、うなずきながら泪《なみだ》ぐんでいた。
[#ここで字下げ終わり]
[#地付き]「殺《ころ》しの波紋《はもん》」
 
�ワル�とか�悪党�と呼ばれている極道たちは、「ちょっとした出来心」や「何かの拍子」で悪の道へ入ってしまうようだ。だとしたら、それは「人を疑うという健全な警戒心」をもっていなかったからではあるまいか。
 ひと昔まえの親たちは「男子ひとたび家を出《いづ》れば七人の敵あり」といったものだが、いまのニッポンでは対人関係についていえば、人を信じることばかりが重視されすぎてはいまいか。なるほど、人を信じることそれ自体は大事なことだ。だが、どんな人であれ、温室のなかでぬくぬくと一生を終えられるはずもなく、いやがうえでもさまざまな人と交わらなくては生きてゆけないわけだから、裏切り、抑圧、詐欺、妨害といったものと無縁でいられるはずもない。ならば、人を信じることと同程度に「人を疑うという健全な警戒心」をもつことも強調されなくてはならないのではないか。これこそが本音と建前をわきまえた折り目正しい教育というものであろう。ここをしっかり押さえておかないと、信用のおけない人間をたいした吟味もせずに恃《たの》み、あげくおおいに期待を裏切られ、人間社会に対する歪んだ不信感をもつようになる。
「大人が頭のなかで考えているほど、少年少女は子どもではない」というのは真実である。とすれば、子どもたちに�健全�を教えることができるのは、ユーモア交じりに世の中の本音を語ってみせる親の勇気ではないだろうか。
 いちばんいけないのは、どんな場においても、すべての人はやさしくて、いい人ばかりだと言いつのることである。世の中は大きな「ふれあいの広場」で、そこで出会う人間はみな善人だと思い込んでいると、その確信がぐらついたとき、振り子は大きく逆方向へ揺れ、こんどは一変して人間をひどく疑うようになる。人間は、いちど過度の人間不信に陥ると、人はみなロクでもない奴ばかりだと思い込むようになる。こうなると生活が一変し、自分のやることが他人に受け入れられなかったり、気持ちがうまく人に伝わらなかったりしただけで、すぐにヘソを曲げ、いじけた態度をとるようになる。そして、そうした態度がだんだん周囲に容認されていくと、「つまらない」「かったるい」「うざったい」などが口ぐせになり、ますます図にのり、横着になって、利かん気の、厚かましい、不逞な人間になっていく。こうして自制の箍《たが》が完全にはずれると、すべてがどうでもよくなり、自暴自棄になって、しまいには大切だった自分自身をも粗末に扱うようになる。
 自分を好きになれない人間は、他人をも好きになれないにちがいない。自分を憎んでいる人間は、他人をも憎むものだ。それは、あらゆる人間が自分と同様、不快な存在として映るからである。だから、他人を傷つけても心が痛まない。
 悪人を評して、「あいつは小さい頃、ほんとうにやさしい子だった」といわれることがしばしばあるが、小生の耳には「あいつは人を疑うという健全な警戒心をもっていなかったのだ」と聞こえてならない。
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