[#ここから5字下げ]
小房《こぶさ》の粂八《くめはち》は、両親の顔を知らぬ。
〈中略〉
「両親の顔もしらねえということは、人間の生活《くらし》の中に何ひとつ無《ね》えということで……それからのわっしが悪《わる》の道へふみこんで行った経緯《ゆくたて》についちゃあ、いちいち申しあげるまでもござんすまい」
[#ここで字下げ終わり]
[#地付き]「血頭《ちがしら》の丹兵衛《たんべえ》」
平蔵にこう述べた粂八は、長谷川平蔵が盗賊夫婦(助次郎・おふじ)のもとに生まれ孤児となった赤子のお順を事もなげに養女としたことを知って、ひどく感激してしまったらしい。いかなるかたちであれ、人は誰かと繋《つな》がりたいと欲求し、「集団の中での自分の居場所」を確保したいと願い、自分という存在を認めてほしいと願望している。というか、人は他者からの「承認」を得られなければ、一般的生活との折り合いがつかないどころか、人間としての営みをつづけていくこと自体が困難になってしまうようだ。では、いったい人間はいかなる「承認」を必要とするのか。
一、家族(とくに親)からの根源的承認。
二、恋人からのエロス的承認。
三、仕事仲間や友人知人からの社会的承認。
これら三者から「おまえ、なかなかやるじゃないか」とか「残念だったわね。でも好きよ」とか「たいしたものだ。見直したよ」とかいわれれば、人はいくばくかの自信をもって生きてゆける。また、どんなに辛苦に満ちた日々に遭遇しようとも、それをよすがにすればなんとか道を踏み外すことなく人生を歩んでゆける。
小生、荒《すさ》んでいた二十歳のときに、さほど好きでもない女の子から「好き」といわれたことがある。意外であったが、心外ではなかった。いや猛烈にうれしかったと告白しよう。というのは、一緒に街をぶらぶら歩いて話をするだけでこんなにも心がやすらぐものかと感じ入ったからである。いや、生きている手ごたえさえ感じたのだ。
がしかし、これら三者のいずれからも「承認」を得られないとなると、自分ひとりではどうにも立ちゆかなくなり、この世はひどく容易ならざるところになってしまう。じっさい思春期につまずいた人や犯罪に手を染めた人は、これらの三者のいずれからも「承認」を得ることに失敗しているようだ。
密偵・小房の粂八の生いたちは不遇であった。両親の顔を知らずに育ち、気がついたときは雪深い山村で「おん婆《ばあ》」と自分が呼んだ祖母らしい老婆と暮らしていた。そして、この「おん婆」が死んでのちは、売り飛ばされて諸方を転々としていく身となった。盗賊の世界に足を踏み入れ、女を平気で嬲《なぶ》ったりしたのも、こうした境涯に対する復讐にほかならなかったのであろう。粂八はのちに火盗改メに捕えられたとき、「両親の顔もしらねえということは、人間の生活《くらし》の中に何ひとつ無《ね》えということで……」と洩らすが、これは「愛すべきものや守るべきものがないという人間は、あらゆる行動が人間としての営みとして感じられない」と読んでもいいであろう。人はそれほどまでに他者からの「承認」を渇望する生き物なのだ。
† この稿を起こすにあたって、勢古浩爾《せここうじ》氏の『わたしを認めよ!』(洋泉社新書y)を参考にさせていただいた。痛快無比の、まれに見る名著である。