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鬼平犯科帳の人生論26

时间: 2019-07-30    进入日语论坛
核心提示:● 教育で個性は育めない[#ここから5字下げ] 二十五名の配下が、異口同音に、雨引《あまびき》の文五郎《ぶんごろう》を、
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 ● 教育で個性は育めない
 
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 二十五名の配下が、異口同音に、雨引《あまびき》の文五郎《ぶんごろう》を、
「二代目の長兵衛お頭に……」
 と、すすめもし、ねがってもみたが、文五郎は毅然として、
「いや、おれは先代の長兵衛お頭の跡目をつぐつもりはねえ。なぜといいねえ、おれは雨引の文五郎で西尾の長兵衛お頭ではねえからだ。だからお前たちは、おもいおもいに散って行き、それぞれおもうところへ身を落ちつけるがいい。おれはこれから|ひとりばたらき《ヽヽヽヽヽヽヽ》の盗人になるが……もしも、お前たちのうちで、先代の跡目をつぎてえという者がいるのなら、おれはとめねえ。好き勝手にしたがいい」
[#ここで字下げ終わり]
[#地付き]「雨引《あまびき》の文五郎《ぶんごろう》」
 
 雨引の文五郎は『鬼平犯科帳』に登場する盗賊のなかでも、もっとも魅力ある盗人のひとりだ。
 なにがいいといって、宵越《よいご》しの権力をもたず、颯爽《さつそう》としており、それでいて情が深く、信義に厚いところがいい。あまたいる盗賊のなかでも、その個性は際立っている……などと書くと、「個性という言葉をつかえば、何でも済むと思っていやがる」とお叱りを受けそうだが、不用意に使っているつもりは毛頭ない。というわけで、今回は「個性」について考えてみたい。
 世を眺め渡してみると、「個性重視」の声は相変わらず大きい。なかでも教育と名のつくところでは、画一を排して個性を尊重するといえば、誰も異議を唱えないばかりか、もろ手を挙げて大賛成という次第。で、結果、どんなことが起こったか。
 勝手がのさばり、わがままが横行した。
 子どもの意欲、創造性、好奇心などを過度に尊重しすぎたために、あちこちから悲鳴と批判の声があがっているほどだ(アメリカではいま、「個性重視の教育は失敗した」という反省がしきりになされている)。
 もとより画一主義を遂行すれば人は型にはまり、個性主義を実践すれば個性が伸びるなどと考えること自体が、もう人間という生き物に対する想像力を欠いている。
 愚見を述べれば、個性とは、教育する側の意図と期待を裏切ったところにしかその姿をあらわさないものだ。個性主義教育をやれば、個性がすくすくと育つと考えるのは短絡的にすぎる。
 たとえば、大リーグへ行った野茂英雄やイチローを見るがいい。野茂は入団当初、投球フォームに難ありといわれ、しばしば改造を命じられているし、イチローもまた打撃フォームの矯正を幾度となく示唆されている。しかし、|幼い頃からすでに基礎的訓練をしっかりと積んでいた両選手《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》はそれを受けつけず、「変則」だの「異端」だのといわれても自分の思うところを貫きとおし、野茂は「トルネード投法」を、そしてイチローは「振り子打法」をそれぞれ完成させていった。
 いうならば、個性的なものとは、画一なるものから逸脱したところにその顔をのぞかせるものなのだ。いや、こういったほうがいいだろう。個性的なものは、退屈ともいえる画一的な基礎訓練を充分に受けた土壌にしか芽吹かないものである、と。
 そもそも教育とは、先人の知恵を学び、そこから何かしらの「型」を身につける場である。その意味において、教育の現場はどうしても画一にならざるをえず、個性を排除しにかかるのは当然のことといってよいであろう。こう考えれば、「個性主義教育」なるものが、いかに形容矛盾であるかがわかろうというものである。
 また、個性主義教育とか、個性を重視する指導などといっている人間にかぎって個性が感じられないのも、個性というものを考えるうえで大いにヒントになる。
 
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