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「あのような御立派な父上をもたれたからには、もそっと上達をせねばなるまい」
と、口ぐせのように辰蔵をいましめるのだが、どうもこの弟子、|すじ《ヽヽ》がよくない。
「お前のすじの悪いのはわかっておる。なれど、坪井先生に日々《ひび》接することのみにても、お前のためになることだ」
と、平蔵もつねづね息子にいいきかせている。
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[#地付き]「霧《なご》の七郎《しちろう》」
上達の早い人がいる。コツの飲み込みが早く、要領よく何でもこなしてしまう。そんな人が周囲に一人や二人はいるだろう。どうしてなんだろう。上達にも秘訣があるのだろうか。上達の早い人を見ていると、あこがれの対象をしっかりと見つけていることに気づく。「あの人のようになりたい」とか、「あんなことができるようになりたい」という具体的願望をもっているのだ。そして、あこがれの対象を見つけたら、それをじっくりと観察して、真似《まね》しようと努めている。つまり、明確な課題意識をもって自分の獲得したい技術を真似しているのである。
ところが、上達の遅い人はこれができない。「真似をする」というと、とたんに「自分は人の真似なんかしません。わたしはわたしですから」と不満をあらわにして興味を示さないのだ。どうして彼らはこんな子どもじみたことをいうのか。
戦後、日本社会は「強制」と「模倣」を�悪�と見なし、その象徴としての「師弟関係」の抹殺に渾身の力を注いできた。学校の現場はその放逐に力を貸し、教師たちは�師�になることを嫌がり、生徒は�弟�になることを拒否した。小生にいわせれば、これが「真似することを嫌がる人たち」を大量に産みだす原因となったのだが、これによって日本人が「独創」を得意とするようになったかというと、そんな話はついぞ聞いたことがない。つまり、日本人は「模倣」も「独創」も手放してしまったというわけだ。
考えるに、独創とは、模倣がもたらすものではないのか。ある技術を長い目で眺めると、つくづく「独創は模倣の延長線上にある」ことがわかる。模倣を通過しない技能は奇を衒《てら》う破目《はめ》に陥りやすく、実を結ばないことのほうが多いのだ。「学ぶ」という言葉も、「真似《まね》ぶ」からきているというではないか。「習う」も「倣《なら》う」だ。学習の根本は、師の技術を真似ることにほかならない。
では、どう真似をしたらいいのか。
卓越した技術はマニュアル化されていなかったり、言語化されていないことが多い。また、当人に訊いても、言葉でうまく伝えられなかったり、さまざまな理由で教えてもらえない場合もある。
そこでまず、凝視と観察がはじまる。次は、見よう見真似の模倣だ。むろん最初のうちは、自分でも滑稽と思えるくらいに|ぶざま《ヽヽヽ》であろう。が、試行錯誤を繰り返しながらひたすら真似するうち、ある日まさに突然という感じで、すんなりできてしまうことがある。そして、やがてその技術に慣れてくると「気づく力」が芽生え、美点だけではなく、欠点も気になりはじめる。次なるは、それを自分に見合ったように修正しようとする訓練だ。独創がひょいと顔をだすのはそのときである。
独創とは、気づかれぬ剽窃《ひようせつ》であるのかもしれない。だから、もっと模倣を。