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平蔵は曲折に富んだ四十余年の人生経験によって、思案から行動をよぶことよりも、先ず、些細《ささい》な動作をおこし、そのことによってわが精神《こころ》を操作することを体得していた。
絶望や悲嘆に直面したときは、それにふさわしい情緒へ落ちこまず、笑いたくなくとも、先ず笑ってみるのがよいのだ。
すると、その笑ったという行為が、ふしぎに人間のこころへ反応してくる。
〈中略〉
(よし、来い!!)
呼吸がととのい、勇気がわき出てきた。
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[#地付き]「兇剣《きようけん》」
感情への耽溺は、錯覚をもたらし、勘を鈍らせる。勘が鈍ると、忍びよってくるのは焦燥であり不安である。そしてそれらに支配されはじめると、ますます情緒が不安定になり、さらなる妄想と曲解へ至る──というような悪循環に陥ったことは、誰しもが経験したおぼえがあるだろう。こうなると自分の力ではどうにもならなくて、まるで流砂にずんずん下半身をくわえこまれていくような感覚に捉われる。こんなとき、そこから脱する方法はあるのだろうか。
以前、「人は悲しいから泣くのではなく、泣くから悲しくなるのだ」という先人の文言に出会ったとき、ほほう、そういう考え方もあるのか、といたく感心したおぼえがある。ということは、心が楽しいと笑みがこぼれるわけだから、逆に笑顔をつくれば心が楽しくなるはずである。そう考えて、ためしにいま、口をとがらしてみると、……五秒もしないうちにじわりと腹が立ってきて、文句のひとつもいってみたくなるではないか。一斑が全豹を変えてしまうことはおうおうにしてよくあることなのだ。
ひきこもりがちだった人がひょんなことから陽気な異性と出会って明るさを取り戻したとか、うつ病の人が光に満ちた南の島に移住したらウソのようにうつ病を発病しなくなったという話を聞いたことがあるが、これもうわべを変えることで全体を変えることに成功したよい例であろう。
感情が行動を規定するとは考えずに、
「ある行動をとれば、それにふさわしい感情がついてくる」
と考えてみてはどうか。平蔵がいわんとしていることも同じである。思考の蛸壺《たこつぼ》にハマりそうになったら、その傾向に埋没せず、うわべを変えることで望ましい気持ちを呼び込んでしまえと説いている。池波正太郎はこのことをかなり意識していたようで、
「私は、仕事の行き詰りを頭脳からではなく、躰のほうから解いて行くようにしている」
とか、
「人間という生きものは、苦悩・悲嘆・絶望の最中《さなか》にあっても、そこへ、熱い味噌汁が出てきて一口すすりこみ、
(あ、うまい)
と、感じるとき、われ知らず微笑が浮かび、生き甲斐をおぼえるようにできている。
大事なのは、人間の躰《からだ》にそなわった、その感覚を存続させて行くことだと私はおもう」
などと書いている(ともに『日曜日の万年筆』所収・新潮文庫)。
ちょっとした動作に、こうなったらいいなあという心をちょっと添えることで、あっという間に自分を取り囲む世界がひっくり返ってしまうことがあるということは、なんとも愉快ではないか。
うわべに自由あれ。そしてそのための「内心の自由」にも自由あれ。