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いつであったか長谷川平蔵が、妻女・久栄《ひさえ》に、
「川村弥助は勘定掛として、まことに、すぐれている。〈中略〉いつなんどきにても、帳簿を一目《ひとめ》見れば、たちどころに御役目の上の金の出し入れによって、与力・同心のはたらきぶりまでが、わかるようになっている。つまり、そのように川村は、おのれの仕事に絶えず工夫をこらし、誠実《まこと》をつくして、つとめている。なればさ、通常は二人、三人にてつとめる勘定掛が、わしのところでは一人ですむ。〈中略〉川村弥助のごとき才能は、この世の宝物《たからもの》といってよいのだ」
そういったことがあった。
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[#地付き]「泣《な》き味噌屋《みそや》」
火盗改メは獰猛|剽悍《ひようかん》な盗賊に立ち向かう勇猛果敢な武闘集団である。が、ひとり川村弥助は小心者の泣き虫であった。犬に吠えつかれれば竦《すく》みあがり、人に意見をされれば泪《なみだ》をため、地震があれば腰をぬかして失禁してしまうのだった。あたかも負け犬が柔らかい腹を見せるがごとき自尊心のない行為を人前で平気でやってしまうのだ。そんな川村を目にした同心たちは、おおいに気抜けがして、「さむらいの風上にもおけぬ男よ」と陰口をたたき、泣き虫をもじって「泣《な》き味噌屋《みそや》」という軽侮に満ちた渾名《あだな》を献上するのだった。
こんなときである、乙女の感受性を秘めた戦略家・長谷川平蔵の腕力が発揮されるのは。平蔵はさっそく川村の美点を見つけ、
「今の世の武士には、川村のごとき男も必要なのだよ」
と妻の久栄にそれとなく聞かせるのだった。
一見すると何の役にもたたず、それどころか周囲に迷惑をかけ足手まといになる人間が周囲にいた場合、読者諸氏よ、あなただったらどんな行動をとるだろうか。おおかたは、まったく気の滅入るような野郎だよ、と舌打ちをしながら嘲笑し、軽蔑に嫌味を添えて陰に陽にいじめにかかるであろう。だが、平蔵はそうはしない。「精進を怠らぬ人間はきっとどこかで誰かの役に立っている」という信念の持ち主であるから、広く当人の周辺にサーチライトを当てて、なんとか美点を見つけようと努めるのだった。刺激の強い色を際立たせるにはまわりに薄い色も必要だよ、といわんばかりのやさしさである。こういったところに、人間に対する平蔵の寛容さが見てとれるのだが、注目すべきはこれにとどまらない。その配色の妙をごらんあれ。
次に注目すべきは、平蔵に命じられたわけでもないのに、妻の久栄が平蔵の洩らした話を「川村どのの胸ひとつに、おさめておきなされ」と本人にそっと伝えていることだ。
人は間接的伝達に弱い。
賢明な読者なら、直接的伝達よりも間接的伝達のほうが相手の心により大きな美しい波紋を与えることができるということを知っていよう。噂や悪口をいちいち伝えにくる人間はまことにうっとうしいが(小生、このテの人間が大嫌いである)、よい話は間接的に伝わってくると、えもいわれぬほど、じわっとうれしい。
「人を褒めるときは、面と向かっていうよりも、人づてに伝えるほうが効果的である」ということを、平蔵夫婦はじつによく心得ている。
それをあらかじめ承知で平蔵は妻の久栄に川村の話をし、久栄もまたそれがわかっているから川村にそっと伝えたというわけだ。もちろん、川村の心の風鈴がチリンと揺れたのはいうまでもない。見事な二重奏である。人の心を活殺自在に動かすことができる人間はこうしたことを心得ているんだね。さすがは平蔵夫婦だ。あざとい。この小股すくいめ。いや、味なことをやるといっておこう。