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「さあ、それからというものは、一日一日が、まるで変ってしめえました。お今《いま》とお仙《せん》にいろいろと教えられ、躰のあっちこっちをいじりまわされているうち、手前《てめえ》が女どもにどんな男なのか、それが、はっきりとわかってめえりました。へえもう、いくらでも、ちからが出てめえりまして……もう、おもしろくておもしろくて、たまったものじゃあねえ。男と女の|あのこと《ヽヽヽヽ》の底は、へい、まことにその深え深えもので……こいつ、盗《つと》めするよりもどんなにか、おもしろいことだろうと、へい。
それに、私も二十七のこの年まで、こんなに……こ、こんなに可愛がられたことはござりませんので、へい……」
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[#地付き]「白《しろ》と黒《くろ》」
こういう言説は、聞く者をしゅんとさせずにはおかない。
手に入れやすいと思いながらなかなか手に入れられないものといったら、セックスによる恍惚感にとどめさす。こればっかりは「犬も歩けば棒に当たる」ように、「生きていれば素晴らしいセックスにぶちあたる」ということはないようだ。
小生、禁欲家ではないが、さりとて性技について深く思いを致すというたしなみには欠けている。その意味では、セックスを語る有資格者ではないかもしれない。だが、興味は人一倍もっているので、いちおう書いてみる。
いうまでもなく、脳内エッチに際限はない。そのうえ千差万別である。ゆえに誰もが「完全主義者」を目指すようだが、とびきりの恍惚感を手に入れているのはごく一部の選ばれし者たちであるようだ。
「心おきなく欲情させてくれる相手にまさる者はなし」というが、話はそんな単純なことではない。たんに「気持ちいい」だけじゃなくて、その先の、もっと奥深い、身もとろけるような、悦楽の境地というか、夢幻の世界があるようなのだ。山腹で登頂感を味わってはいけないらしいのである。
そ、それほどまでにいいものらしい。
だが、学校と名のつくところでは、その道の奥義は教えてくれない。大学でも「人間関係学部」というのはあるが、「肉体関係学部」はない。
ならば、ひとりで(あるいは二人で)学習するしかない。「セックスの快楽は、青春の疼痛《とうつう》とともに思いだされる過去になってしまった」などと弱気なことは口にしてはいけない。
勃《た》て、あなたの愛撫の手順にはもう厭《あ》きたわよといわれている夫たちよ。
征《ゆ》け、河馬《かば》が討ち死にしたという恰好でソファに横たわる妻たちよ。
男も女も汁気がなくなったらおしまいだ。
「仕事とセックスは家庭に持ち込まない」とか「我ときて遊べや妻とせぬ男」などとのんきなことをいっている場合ではない。厳しい悲観論を生きる陽気さをもって立ち向かえ。
と、きばったところで、誰もが「身のとろけるような快楽」を得られるようではないらしいのだ。それどころか、蜃気楼のように追っても追っても到達できない未到の地のままで終わってしまう人もけっこういるらしいんである。
横浜界隈を根城《ねじろ》にするある精力絶倫の求道者というか性の大食漢にいわせると、どんなに励んでみても、「脳みそまで濡れそぼった」り、「腰がしびれ、頭の毛がしびれ、頭のなかに穴があき、そこから自分が抜けだすような感覚」にまで至る人は「女で百人にひとり。男だと、千人にひとり」らしい。せ、せんにんにひとり……。
だから、みなさん、ご安心ください。あるいは、おあいにくさま。