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五郎蔵は喜十《きじゆう》の存在を、畏敬している盗賊改方の長官・長谷川平蔵にも洩《も》らしていない。
それが、喜十との約束だし、また長谷川平蔵も、密偵たちの情報網に対しては、いささかも口をさしはさまぬ。
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[#地付き]「引《ひ》き込《こ》み女《おんな》」
盗賊あがりの密偵たちはそれぞれが秘密の情報網をもっている。五郎蔵もそのひとりだ。いうまでもなく、その情報の多くはかつての盗賊仲間からもたらされる。またそうであれば、とうぜん「売りたくない仲間」をお上《かみ》に売ってしまうこともある。
心中を察するに、たとえ平蔵に身を任せたとはいえ、そこは血のかよった人間であるから、報告すべきか隠蔽すべきか、大いに悩んだこともあるだろう。元盗賊の密偵たちには、口にだしてはいえぬさまざまな心の葛藤があったわけだ。が、むろん平蔵がこのことを知らぬわけがない。
≪(この相手だけは、お上に売ることはできねえ)
という場合がないとはいえぬ。
そうした密偵たちの微妙な心理については、長谷川平蔵もよくわきまえているにちがいない。
なればこそ、密偵たちも、
(いのちがけで、はたらくときは、はたらく……)
のだといってもよい。≫
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[#地付き]「馴馬《なれうま》の三蔵《さんぞう》」
平蔵の立場を考えれば、密偵たちの情報隠蔽に対しては厳しく問い質《ただ》すことができたはずである。が、平蔵はそうして得られた情報の価値よりも、密偵たちの心に潜む声なき声に耳を傾けることのほうを重んじた。
密偵たちの心のなかに土足で入り込み、大事なものをひっくり返し、勝手なあら捜しをしたとしたら、密偵たちはどう思うであろうか。平蔵のために「いのちがけで、はたらく」者など、誰一人としていなくなるであろう。ひょっとしたら、平蔵に牙《きば》を剥《む》く密偵だってでてくるかもしれない。そうなれば火盗改メの結束力と活力は失われ、平蔵たちの情報が外部に漏洩する可能性さえでてくる。疑心暗鬼が横行する組織に結束力や求心力がはたらいたためしはない。
情報は、真実を暴きだすもの、攪乱《かくらん》を狙ったもの、信用失墜を計ったものなど、さまざまな用途目的のために流される。
しかし、忘れてはならないのは、情に報いる「情報」もあるということだ。
情報源を明らかにしないことや、情報そのものを露見させないことで、より役に立つ大きな情報を得ることもある。情報は理非(真偽)だけではなく、正否(正不正)によっても語られなければならない。
誤解を恐れずにいえば、情報には、すぐにでも露見させるべき情報、しばらく放っておくべき情報、静かに葬ってしまったほうがいい情報がある。
情報というものは、活字と音声だけで成り立つのっぺらぼうなものではない。そこには、たたずまいがあり、色艶があり、香りがあり、味があり、食感があり、あと味さえある。こう考えると平蔵は、情報の酸《す》いも甘いも噛みわけていた男といえよう。