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「お先へ、ごめん下さいまし」
その客が、ごく自然に平蔵へ声をかけ、外へ出て行った。
〈中略〉
(あの男、どうも、くさい)
箸《はし》を置き、連子窓《れんじまど》の隙間《すきま》から、源兵衛橋を南へわたって行く、いまの客の後姿《うしろすがた》を注視した。
彼は、夕闇のたちこめる源兵衛橋の中央で、こちらを振り返った。これも平蔵の気にいらなかった。
さらに彼は、橋の向うから|とぼとぼ《ヽヽヽヽ》やって来る乞食の老婆を呼びとめ、|ほどこし《ヽヽヽヽ》をしたものである。
そのことが層倍に、平蔵は気に入らなかった。
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[#地付き]「蛇《へび》の眼《め》」
平蔵は、この男になぜ嫌疑の目を向けたのか。
それは、こやつには礼儀正しさや謙虚さが身についていないと看破したからである。
ぎこちない、いかにもとってつけたようなふるまいが平蔵の勘ばたらきを刺激したというわけだ。豹はいくら頑張ったところで斑点を変えることができないのだ。
果たして、その男は蛇《くちなわ》の平十郎という盗賊であった。平蔵に刺客をさし向けたこともある兇賊である。
卑劣な人間は上品を気どるとき、残酷なまでに下品さをあらわしてしまうらしい。
上品は滲みでるものであって、気どるものではないのだ。が、悲しいかな、卑しい人間にはそれがわからない。物言いや素行をすっぽり「上品」で包めば、人の目を欺けるものと思ってしまう。豪邸へはハイヒールをはいて盗みに入ればよいと考えてしまうのだ。滑稽をとおり越して哀れである。
むろん話は鬼平の時代にとどまらない。下品な人たちは、現代ニッポンのそこかしこに散見できる。
まず小生の頭にすぐ浮かぶのは、血税を公的資金、馘首《かくしゆ》をリストラ、超過勤務の給料不払いをサービス残業、売春を援助交際、猥褻《わいせつ》をスキンシップと�上品�に表現して乙《おつ》にすましている一群の人たちだ。
いい気になりすぎというか、心根が下品きわまりない(小生、スニーカーを運動靴、ビーチサンダルをゴム草履、デパートを百貨店、傘をコウモリ、ノートを帳面、ポットを魔法瓶といって、さんざんバカにされた経験をもつ。が、それを根にもってここで指弾しているのではない)。
半径二百メートル以内にも下品な人たちはいっぱいいる。
自分で稼いでもいないのにブランド品で身をかためている驕《おご》り高き女子大生。高級クラブで「やっぱり勝てば官軍じゃないですか」などとほざいて呵々《かか》大笑している増上慢《ぞうじようまん》。礼儀を無用と心得て、カネを懐へ入れることばかりに熱中しているドケチ経営者。人生を謳歌《おうか》していることを他人に見せびらかしたくてしょうがないタラバガニおばさん(カメラを向けると彼女たちはかならずタラバガニのようにVサインをする)。読書が好きで、やたらウンチクをかたむけたがる入社五年目のインテリくん(この本も隠れてこっそりと読んでください。でないと、利口であることがバレちゃうよ)。
いずれも、これみよがしの上品さが下品である。
彼らは、自尊心や自信をもつことが、すなわち「物品や態度で気どる」ことだと勘違いしているのだ。浅ましい虚勢である。人格や見識はちっとも成熟しないのに、見栄をはったり、気どることだけは肥大化するようである。いっておくが、お金がないことや生活が苦しいことは下品ではない。それはただの貧乏であって、それ以上でもそれ以下でもない。念の為。