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いつであったか平蔵が、妻女におもわず零《こぼ》したことがあった。
「このように、一所懸命にはたらかなくてもよいのだ。よい加減にしておいて、他の人に交替してもらうのが、もっともよいのさ。これではおれも、とうてい長生きはできまいよ」
「では、よい加減にあそばしたら、いかがで……」
「できれば、な……だが、どうもいけない」
「なぜ、いけませぬ?」
「この御役目が、おれの性《しよう》に|ぴたり《ヽヽヽ》はまっているのだ。これはその……まことにもって、困ったことだ」
「まあ……」
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[#地付き]「礼金二百両《れいきんにひやくりよう》」
仕事をやるうえでの心得、いわゆる仕事訓に「KKD」なる言葉があるという。
「勘・経験・度胸」と解する向きもあれば、「根性・根性・ド根性」とみずからに言い聞かせている御仁もいるようだ。わざわざこのような標語をつくってまで立ち向かわなくてはならない仕事とは、辛いこと憂《う》きにたつことの多い、まことにやっかいな代物といわねばならない。
じっさい、仕事は思うにまかせぬものである。商社マンに憧れ、志望した商社に就職できたものの自分の思うようにならず、去っていた人ならゴマンといるであろう。あるいはまた、サッカーへの道を選んでしまったばかりに多くの辛酸を舐《な》め、サッカーを恨んで残りの人生を過ごすという人もいるであろう。人は自分のやりたいものを選んだからといって、それで幸福になれるという保証はどこにもないのだ。いや、むしろ「やりたいもの」と「得意なもの」はそもそも喰い違うのではないのか。
「これといって、いまの仕事に文句はないんだけど、何かもの足りないんです」
「自分には、もっとほかに向いている仕事があると思うんです……」
こうした不満を吐露する若者は多い。しかし、そのことを嘆くばかりではいっこうに埒《らち》はあかない。というより、そんなことで多くの時間を無駄にすることは、限られた人生への冒涜《ぼうとく》である。若い衆、よく聞けよ。幸福に秘訣があるとしたら、好きなことをいたずらに追い求めるのではなく、めぐりあった宿命や、いまそこにある仕事に魅力を見つけて、強引に好きになってしまうことだ。福田|恆存《つねあり》によれば、「不幸にたへる術を伝授する」ことこそ、「唯一のあるべき幸福論」である。
どんなことであれ、一定の期間それに打ち込むと、ぽつんぽつんと良いところが見えてくるものだ。と同時に、「職業に見いだされる自分」というのもだんだん浮き彫りになってくる。つまらないからといって、すぐに投げだしたら、なじむものにけっして出会わないであろう。安易な転職ではなかなか天職が見つからないものなのだ(転職をするのだったら、いっさいの責任をすべて自分で背負いこむ覚悟でやることだ。残るのだったら、いまの不遇を仕事や他人のせいにするな)。
宿命のなかに快楽を求める人生態度にこそ、幸福を獲得する最大の秘訣がある。平蔵は妻女との会話のなかで、このことを自分に言い聞かせるようにたしかめている。
じっさい周囲を見渡してみても、「仕事のできる人間」は「仕事に愉しさを見つけた人間」であり「仕事が好きな人間」である。人は嫌いなことをしていて辛い目にあったら頑張れないが、好きなことをやっていて辛いことに出会ったら踏んばれる。だから好きになってしまえばこっちのものなのだ。あとは情熱をもってそれを持続すればよい。目先の利益に惑わされることなく、黙々とやりつづけるのだ。結果、予想もしなかった果実がもたらされることもあるだろう。潔くあきらめることもときには大切だが、持続することもまた間違いなく美徳のひとつである。持続(succession)とは、成功(success)の母親でもあるということを知っておくとよい。