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盗賊のくせに次郎吉は、他人の難儀《なんぎ》を見すごせない男だ。
それもこれも、おのれが他人の金品を盗み取るのを稼業にしている引け目から出たもので、悪事をして食べているのだから、悪事をはなれているときぐらいは、
(せめて、善《い》いことをしてえものだ)
という、いわば罪ほろぼしをしながら、こやつは罪を重ねて生きている。
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[#地付き]「明神《みようじん》の次郎吉《じろきち》」
小生、いつの頃からか、悪の世界にひどく興味をもつようになった。考えてみるに、悪人といわれる者たちが「身は鴻毛《こうもう》より軽し」の言葉どおり、些細なことに死を賭して無造作に死んでいく、その決然たる野蛮な態度に魅了されたようなのだ。
悪のもつ野蛮さは魅力的だ。洗練は研鑽《けんさん》によって容易に手に入れることができるが、野蛮は生半可な研鑽では手に入れられないからだ。
世上《せじよう》、悪人の評判はよろしくない。悪いことを為し、そのうえ偽悪の芸を競い合うからとうぜんである。だが、猪野健治氏をはじめとする数人の事情通によれば、同情の余地なしという極道もなかにはいるが、任侠系のやくざはけっこう小さな善事を重ねているのだそうだ。なかにはこちらの頭がさがるような殊勝なことをやっている極道もいるらしい。
マックス・ヴェーバーは『職業としての政治』のなかで、「人間の行為に関しては、善からは善のみが生じ、悪からは悪のみが生じるというのはけっして真実ではなく、往々にして逆の場合が真実である」と述べているが、これは肝に銘じておくべき真実ではないだろうか。事実、己れを善人だと思い込んで、ひとり悦に入っている人間ほど始末に負えないものはない。自分自身の善行がひょっとしたら相手に迷惑をかけているのではないかと疑ってみる想像力を欠いた人間は、じっさいのところ傲慢な加害者になっている可能性が高いのではないか。
凡人の美徳はほとんど偽装された悪徳であるといったら言い過ぎだろうか。そういいたくなるほど善意の化粧をほどこした悪はこの世の中に充満している。
「正直者は馬鹿をみる」という言葉をご存じであろう。小生の思うに、おそらくこの言葉の作者は自称�正直者�で、この言葉の背後には、不正直者をたいへんうらやんでいる気配がある。
「ほんとうなら、正直で善良なこのわたくしがボロ儲けをするはずだったのに……悔しいったらありゃしない。ちくしょう、あの悪人どもめが。おぼえてやがれ」
たぶん、このような邪悪な思いに「善意」という名の薄化粧がほどこされて、「正直者は馬鹿をみる」という言葉に結実したのではあるまいか。
それにひきかえ悪人は、自分がつまらない人間であることを自覚しているぶん、好ましい存在だと映る。「悪人の自覚とは、悪人ぶることでもなく、救ひを打算することでもない。自分の心の中に巣くふ情欲や物欲のあさましさをみつめて、けんそんになることだ」と述べたのは亀井勝一郎(「悪人の自覚」)だが、『鬼平犯科帳』の大きな魅力のひとつはそうした悪人がたくさん登場することだ。「自分の心の中に巣くふ情欲や物欲のあさましさをみつめて、けんそんになる」悪人たちは、決然たる野蛮な態度と研鑽による洗練さを際立たせることによって、善男善女たちの、人目に触れることを狙った偽善的善行を嗤《わら》うことがある。