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「どうも、いささか、近ごろの御頭は沢田さんや松永弥四郎ばかり贔屓《ひいき》になさるようだ。そうはおもわぬか、おい」
「なあんだ。木村さん、|やきもち《ヽヽヽヽ》を焼いている」
「だまれ、そ、そんなおれではないぞ」
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[#地付き]「妙義《みようぎ》の團右《だんえ》衛|門《もん》」
算数が苦手な人はいても、打算的でない人はいない。なんだかんだいっても人は自分の利得を考えて日々を暮らしているものである。またそうであれば、とうぜん妬心《としん》や怨嗟《えんさ》といった負の感情から無縁でいられるはずもない。呪詛《じゆそ》や怨恨をみずからのうちにたぎらせて生きているのだ。
あなたは男同士のやきもちを厭《いや》というほど知っているであろう。
知らない? あなたはとことん能天気な人間だ。
どんな分野にせよ、多少とも為すところあらんとする意欲の持ち主ならば、嫉妬というものは意識してとうぜんの感情である。谷沢永一氏によれば、嫉妬とは「本然《ほんぜん》の情」である。また、嫉妬からどんなに無縁でありたいと願っても、蔦《つた》のようにからまりついてくるからやっかいきわまりない。
男の私がいうのもなんだが、少なくともいまの世の中、男のほうが女よりも時代と寝るし、また男ともしょっちゅう添い寝している。もちろん比喩としていっているのであるが、それくらい現代の男たちはおべっかをつかう動物へと変貌を遂げている。これは組織や会社というタテ社会のなかに女よりも男のほうが多く組み込まれているためであろうが、おべっかつかいはそれこそハトの糞よりもたやすく見つけることができる。そしてやっかいなことに、おべっかをつかう動物はその反動としての嫉妬に狂う獣でもある。
演出家の熊谷雅弘氏は温厚篤実な人格者である。おそらく若き日には深山幽谷《しんざんゆうこく》に分け入って滝に打たれるなどの荒行《あらぎよう》を積んだのではないかと思われるほどの強い心をもった高潔な人物だ。経歴および容姿にも恵まれ、およそ人を妬《ねた》んだことなどないであろうと思わせる人でもある。ところがその熊谷氏いわく、「さすがにこの歳になるとそんなことはないけれど、六十くらいまでは修羅を燃やしていたね」とこうである。嫉妬の妄執に苦しめられたというのだ。ああ人間って。
悲しいかな、人間は成長してもなお嫉妬の炎《ほむら》をゆらゆらと燃やしてしまうものらしい。それどころか、なかには嫉妬の炎を大火にしてしまい、自分自身をも燃やし尽くしてしまう者さえいる。嫉妬で身を焦がしてしまったら、もうおしまいだ(ひょっとしたら人生の幸福とは、人に嫉妬されるほどの幸福をむさぼらないことにあるのかもしれない)。
嫉妬心を滅却するには、自分が尊敬できる人を競争相手に選び、嫉妬がもつ情緒的エネルギーがいかに自分を不幸にするかということを強く自覚し、他人の生き方に気をとられてはいけないと英雄的な自戒をするしかない。
心の安寧を手に入れたいと願うのなら、腹の底でとぐろを巻く嫉妬という野獣に断じて活躍の場を与えてはならない。わたしたちは、嫉妬するためにこの世に生まれてきたのではない。