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ここ一、二年は、盗賊の捕り物はあっても忠吾自身の手柄はなく、以前はあれほどに「忠吾《うさぎ》、忠吾《うさぎ》」とよんで、何かにつけて供を命じてくれた長官《おかしら》・長谷川平蔵が、ちかごろは顔を合わせても、
「うむ……」
軽く、うなずいてくれるのみだ。
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[#地付き]「麻布一本松《あざぶいつぽんまつ》」
このところ木村忠吾はツイてない。それが自分でもわかるから、苛立ちもよりつのる。
人生には潮の満ち引きがある。何をやってもすべてが順調にいくときがあるかと思えば、何をやっても思いどおりに運ばないときがある。自分の力ではどうにもならない、目には見えない大きな力がはたらいて、わたしたちの運命を翻弄するのだ。
アメリカ大リーグでMVPに輝いたことのあるマイク・シュミットはかつてこう述懐したことがある。
「スランプから抜けだせなくて悩んでいるときは、グラウンドのうえにあるものがみな、自分にヒットを打たせまい、塁に出させまいとしているように見える。こういうときは、二塁の審判までグローブをはめているような気がしてくる」
こんなときはすっかり塞《ふさ》ぎの虫に取り憑《つ》かれてしまい、憮然とした浮かない表情になっていることだろう。また、まわりの人間たちもこちらがくすぶっているのがわかるから近寄ってこようともしない。あーあ。髀肉《ひにく》の嘆をかこつばかりではいけないと思い、脳漿《のうしよう》をしぼって才智才略の網を張るが、これがどういうわけかことごとく裏目にでてしまう。くそっ。チャンスはめぐってくる。が、どいつもこいつも猛スピードで走り去っていき、しかも短い前髪しかもっていないため、振り返って後ろ髪をつかもうにもつかめない。どうして自分だけが……。激しい自己嫌悪とやり場のない怒りが一気にこみあげてくる。不遇を嘆き、天命を恨みたくなる。
こんな出口のない迷路に入り込んでしまったときはどうしたらいいのだろう。何か打つ手はあるのだろうか。
とりあえずは、何もするな。どうもするな。
そうしたときは、じたばたせずに、雨の日もあるさ、とのんびり構えることだ。
「花の咲かない冬の日は下へ下へと根を下ろせ」というではないか。不遇や逆境こそは己れを鍛えてくれる冬の雨だと思って、じっと堪えていればよい。
平蔵がつねづね小生の耳もとで囁く、せめてもの対策は次のことである。
ぐっすり眠れ。
空を見上げよ。
ぶらりと外に出よ。
大股で歩け。
朗《ほが》らかな気持ちであれ。
春風の如く人に接しよ。
秋霜を以《もつ》て己れを慎め。
くちびるに歌をもて。
小さく声援を送ってくれる友と語らえ。
できることなら名山大川に遊べ。