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「なあに、物のはずみさ。あのときの私は、ちょうどうまく、元気が出たのだよ。人間にはね、彦十どん。日によって、元気なときと臆病なときがあるのだ。あのとき、私が臆病なときだったら、見ぬ|ふり《ヽヽ》をして何処かへ行ってしまったろうよ」
「いや、それにしても、えれえものだ」
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[#地付き]「高萩《たかはぎ》の捨五郎《すてごろう》」
この高萩の捨五郎の言葉には考えさせられた。
何を考えさせられたかというと、人間というものの不思議についてである。「人間にとってもっとも不可解なものは人間自身である」といわれるが、人間というものを考える面白さは、大げさにいうのではなく無限大である。
幼い頃、自分がなぜこの自分であるかに疑問をもった。これほど多くの人がいるのに、どうして自分はこの顔をもち、この皮膚のなかにいるのか。そんなことを考えた。長じては、自分の気持ちに疑問をもった。思いもよらない自分の心の動きに出会ってびっくりするというようなことがよくあった。これはいまでも変わらない。
べつだんこれといった原因があるわけでもないのに、ふと心がへたばったり、無性に浮かれてみたくなる。いつもなら笑ってすませられるようなことが腹立たしくて仕方ない。むろんこれだけではない。心身をすり減らしてでも仕事に打ち込んでみたいとさっきまで思っていたのに、青空を見上げた次の瞬間、あくせく働かずのんびりと過ごしたいなあと考えている。坂の上の雲を目指す若人のように勇気凜々と昼ごはんを食べにでた数十分後、背中を丸めて峠をとぼとぼと下る気の弱い老人のような気分で戻ってきたりもする。気力がみなぎり精力たくましくやっていけそうなときもあるし、なにもかもが馬鹿らしく見えて心を閉ざしたくなるときもある。自分が怠惰なのか、律儀者なのかさえもわからない。思えば、はじめて恋をしたときもそうだった。好きな人をまえにして、ひどく緊張した。口は渇き、目はひからび、躰《からだ》は引き攣《つ》った。ぎこちなさは自分でもよく感得できた。内心、笑われているのではないかと思った。ヘマをして不快がられたらどうしよう。あげく、自己嫌悪のあまり、自分をこんな目にあわせた相手が憎くなって、しまいには相手の気持ちを傷つけるようなことを口走った。
人間というものはじつに不安定な存在で、ときとして自分自身でさえ自分のことがわからなくなる。この歳になってもまだ、さまざまな局面に臨んで自分の言動の本心がつかめなかったりする。この不安さをどうしたらいいのだろう。いろいろ考えた。でも、いい考えが浮かばない。
しかし、大切なことがわかった。それは、頼りない、何をしでかすかわからない危うい自分をつねに意識しておけ、ということだ。これによって冷静と客観を手に入れることができる。
それと、もうひとつ。経験をあてにしすぎるな、ということだ。いうまでもなく、経験は大切だ。いくら泳ぎ方が頭で理解できても水中で練習しなければ泳ぐことができないように、いくら理論や理屈で武装しても自分の身体や気持ちは思うようにうごいてくれない。その意味では経験は有効だ。だが、経験が教えてくれるもうひとつのことは、「経験は何も教えてくれないこともある」ということだ。経験にはそうした横顔もある。