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「つもりましょうか?」
「春の雪じゃ。人の足を困らせるような|まね《ヽヽ》はすまい」
綿を千切ったような雪が、はらはらと下りてくる庭をながめつつ、長谷川平蔵がいった。
「どうして、雪なぞというものが空から落ちてくるのか……ふしぎなことよ」
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[#地付き]「春《はる》の淡雪《あわゆき》」
三年ほど前のことである。拙者《やつがれ》、数か月に及んで読書その他の知的自慰行為に耽《ふけ》っていたら、陰鬱に包囲され、しまいには何といったらいいのだろう、ヘンになってしまった。頭には活字ばかりが堆積し、心には沸き立つものがなくなった。つまらないミスが多くなり、ヘマやポカが目立つようになった。食べ物はこぼすし、歩いてはよくころんだ。そればかりではない。会議にでれば見当違いな発言をするし、人と話しては相手の気持ちを斟酌することが少なかった。その場でのいちばん大切なことが何なのかがわからなくなり、優先すべきことが不明になった。「現実検討能力の低下」である。そして、しまいには倦怠感が強くなり、多くのことにやる気が失せた。いまにして思えば、それは「暗闇のなかの競泳」であった。誰かの水しぶきが耳の後ろにまで迫ってくるのだが、隣の泳者が見えない。そんな気鬱な毎日がつづく。佐野厄除大師《さのやくよけだいし》へお参りに行ってみようか……。そんなことまで考えた。
そこで、花鳥風月をこよなく愛する年長の知人に相談してみると、行雲流水としたたたずまいで「読書は陰気な室内活動です。週に一日はロゴス(知性・精神)的世界から離れて、パトス(感性・身体)的世界に遊びなさい」と、なんでもわかったふうなことをいう。がしかし、バカをこじらせてはいけないと考え、いわれるままに楽器をいじくり、絵を描き、料理に精をだし、自転車に乗り、散歩をはじめた。すると、どうだろう、半年も経った頃から、窓のあいた部屋にいるような気分になり、からだにさわやかな風が静かに吹きわたるようになった。心がほぐれ、やわらかい気持ちになった。しだいに倦怠感もうすれ、日常の狎《な》れが消え、気力がよみがえり、機嫌もよくなった。心と身体がいかに密接に関わっているかをあらためて認識した次第である。いっとき「左脳(知性)を鍛えろ」とか「右脳(感性)人間になれ」という言葉が流行《はや》ったが、小生の経験からいうと、どちらに偏ってもよくない。その両方を渾然一体と同居させているのがよい。
教訓──情感は明晰な頭脳があってこそ正しく発露されるし、頭脳は豊かな情感があってこそ十全にはたらくものである。バリバリやったら、のほほんとすることだ。
なかでも、もっとも効能があったのは旅先での散歩であった。自然のなかを散歩していると、そこかしこに季節を感じる。稜線を染める「ブナの峰走り」で春を感じ、小川を流れる落葉で秋の到来を感じる。そればかりではない。情感が四季に抱きすくめられるという感触も味わうこともできた。兼好法師は『徒然草』(第十五段)のなかで、「いづくにもあれ、しばし旅だちたるこそ、目さむる心地すれ。そのわたり、ここかしこ見ありき、ゐなかびたる所、山里などは、いと目なれぬことのみぞ多かる」(どこでもいい、しばらく旅に出ていると、目のさめるように清新な心持ちになるものだ。あたりをここかしこと見物して歩き、田舎風情のあるところや山里などに出かけると、まったく見慣れないものばかりに出くわす)と、旅とそこで出会う自然を礼賛している。同感である。まったく自然の力は摩訶《まか》不思議というほかない。