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「だからよ、彦十。お前には、ちゃんとお熊婆ぁの守役《もりやく》を、つとめさせているじゃぁねえか」
すると、聞耳《ききみみ》をたてていたお熊が、
「へっ。こんな彦十みてえな死損《しにぞこな》いの守役は、ごめんこうむりてえね」
といったものだから、相模の彦十が白眼《しろめ》をむき出し、
「何をぬかしゃぁがる。腐《くさ》れ鰯《いわし》の骨婆《ほねばば》ぁめ!!」
と、わめいた。
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[#地付き]「お熊《くま》と茂平《もへい》」
ふつう人生の終幕にさしかかると、激情から逃れて、ひとり静謐《せいひつ》に憩いたがるものだが、この二人にはまったくその気配がない。二人とは、老密偵の彦十と〔笹や〕の女|主人《あるじ》お熊である。
それにしても、じつに由緒正しい罵り合いではないか。憎まれ口をたたくときは、こんなふうにやりたいものである。自分の肌に合った言葉をつかっている人間は、板についているといおうか、やはり「聞かせる」ものだ。やたらに説得力がある。言葉遣いには人柄が滲《にじ》みでるというが、生活実感のない新奇で空疎で陳腐で稚拙な言葉を並べる手合いと較べると、日常語を自前の言葉としてしっかりと身につけたこの二人のほうがよっぽど「たしかな人物」に思えてくる。
流行の尻馬に乗って、肌合いに合わぬ流行《はや》り言葉を得意気に操ってご満悦な人をしばしば見かけるが、小生、そういう人間を「半人前」としか見なさない。異性の好悪と、言葉の好き嫌いをもたぬ人間にロクなやつはいない、という偏見を小生はもっている。人間は「言葉の動物」(ホモ・ロクエンス)であるとの前提に立てば、自分の言葉をもたぬ人間は、しょせん箍《たが》の緩んだ桶のような、いい加減な人間ではないのか。あるいは身体の歴史感覚を欠いた、芯のない、ナメクジみたいな優柔不断な人間ではないのか(昔からある言葉は、無辺際《むへんざい》の過去からやってきたご先祖さまのようなものである。大事に扱うにこしたことはない)。
卑近な例を挙げれば、「おいしい仕事」だの「地球にやさしい」だの「あげまん」だの「飲《ノミ》ニュケーション」だの「自分へのご褒美」だのと真顔でいっている大人がまともなものか。言葉を時代の雰囲気のなかに蒸発させて喜んでいいのは小学生までである(「マジ?」だの「ダッセー」だの「やばい」だの「なにげに」だの「きもい」だの「ワタシ的には……」だのといった品質の悪い言葉も耳障りだ。ちなみに小生はこれらの言葉を死ぬまで口にするつもりはない。古くさいぞ、小生は)。
もう数年前のことになるが、テレビでニュース番組を見ていたら、司会者が「では、もう一度おさらいしておきましょう」と耳慣れぬことをいう。
おさらい、だと。
小生はこの司会者の生徒になった覚えはまったくないので、ひどく不快になったが、あにはからんや、「おさらい」はいつのまにか日本のあちらこちらに伝播《でんぱ》してしまった。最近では、テレビをつければ「それでは出場選手をもう一度おさらいしておきます」とか「ここで食材のおさらいをしておきましょう」との声が飛び交っている。ためらいとか含羞《がんしゆう》ってものはないのか。まったくテレビの連中はどいつもこいつも軽薄なんだから……と思っていると、とある会議で女性の司会者が「決定事項をおさらいしておきますと……」といいやがった。何をぬかしゃぁがる、である。