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「人間《ひと》とは、妙な生きものよ」
「はあ……?」
「悪いことをしながら善いことをし、善いことをしながら悪事をはたらく。こころをゆるし合うた友をだまして、そのこころを傷つけまいとする。ふ、ふふ……これ久栄。これでおれも蔭へまわっては、何をしているか知れたものではないぞ」
「お粥《かゆ》が、さめてしまいまする」
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[#地付き]「明神《みようじん》の次郎吉《じろきち》」
「もしもし」
「はい、サトナカ工務店ですが」
「えっと、森下いる?」
「あのう、どちらの森下でしょうか。うちには森下が二人おりますが」
「バカのほうだよ。バカのほうの森下」
「あいにく森下は、二人ともバカですが……」
この電話の二人、両方ともバカである。どう考えても常軌を逸しているし、常識にも欠けている。
いまの時代、倒錯や逸脱がもてはやされて常識の人気がない。だが青年よ、常識というものは身につけておかなくてはならない。便利だし、損をすることが少ないからだ。
とはいえ、常識は何から何まで無難かといえば、むろんそうではない。常識といえども万能ではない、というのもまた常識である。
そもそも常識とは、固定化された規則や規範ではなく、いまの世の中をよりよく生きるにはどうあるべきかという問いに簡潔な態度をもって応えようとする不断の試みのことである。
だからこそ、常識はまた、脆弱《ぜいじやく》な脇腹をもつ。新しい常識が攻撃をしかけてくると、旧来の常識は驚くほど脆《もろ》いのだ。正しく培われたもの、美しく育まれたものは、おうおうにして抵抗力がないものだが、常識もまた例外ではない。
では、そんなあやふやな常識というものに翻弄されない生き方はあるのだろうか。
じつはこれには妙案がある。それは、「半《ヽ》常識」という発想をもつことだ。反対の「反」ではない。半身の「半」だ。
非常識は、愚かなゆえに常識が欠如していることだ。
反常識は、気負いのゆえに常識を逆手にとっているだけだ。
「半常識」は、常識を身につけたうえで、常識の意味を考え、常識を疑う態度である。
すなわち、半常識の人とは、「群《ぐん》するも党《とう》せず」(多くの人と自由に交わるが附和雷同して実力者におもねることをしない)を常識に対して実行して、いざとなれば常識をかなぐり捨てる覚悟をつねにもっている「半身だけ常識の人」である。
たとえば、二十世紀後半にこの日本を支配した「弱者は善人、強者は悪人」という考え方はどうか。「もはや常識ではない」といってさしつかえない人間理解であろう。
平蔵の言動が意表を衝《つ》き、且《か》つまたそこに周囲の納得を得ることができたのは、「半常識」という構えをもっていたからである。
人生の格闘家・長谷川平蔵がおそらく肝に銘じていたことは、「常識は身につけておかねばならぬが、丈《たけ》に合わぬと感じたら、さっさと脱ぎ捨ててしまえ」であった。