[#ここから5字下げ]
「このごろ、勘助はどうかしている。こころに何ぞ、屈託《くつたく》があると見える」
「と、申されますのは?」
「このごろは、あの男にも似合わぬ莫迦《ばか》な|味つけ《ヽヽヽ》をする。今夜は、ことにひどいようじゃ。庖丁をつかう手も胸のうちも乱れ立っているような……」
[#ここで字下げ終わり]
[#地付き]「白《しろ》い粉《こな》」
老舗《しにせ》や名店といわれる料理屋のなかには、わざと偏屈ぶり、とんでもなく威張りくさっている主人《あるじ》がいる。「僭越ですが」の言葉も添えず、あれこれ指図がましいことを客にいうのである。「お客さまをおもてなしする主人の心得」というものがないのだ。そのような店主のいる店に好んで足を運ぶ物好きもいるようだが、小生は真《ま》っ平《ぴら》ゴメンの助《すけ》である。そうした前向きなマゾっ気はいっさいもちあわせてはいない。そんな店はどんなにおいしい料理をだすとしても、こっちから願い下げである。万が一、そんな店へ行ってしまったら、杯盤狼藉の限りを尽くしてやろう。
鮨《すし》がいちばんの好物であったという池波正太郎は、あるとき若い職人が雲脂《ふけ》の落ちそうな長髪をかきあげつつ、おしゃべりをしながら鮨をにぎるのを見て、長年かよったその店へはそれっきり二度と足を運ばなかったそうである。
鮨はにぎってくれる職人さんの気質や人柄も喰うようなところがあって、職人と客との息が互いに合わないと旨くないのだ。互いのあいだには、金魚すくいの紙、あるいは箸でつまんだ冷奴があるかのような微妙な空気が流れている。大げさにいえば、見た目や味だけでなく、職人の人柄や気質、さらにはその日の虫の居どころまでも吟味しながら食べるのが料理の醍醐味である。
平蔵が、味つけの微妙な変化から、職人の庖丁をつかう手や胸のうちの乱れまで察知したのも、平生からそうした吟味をしながら料理を食していたからにちがいあるまい。
とはいえ、気心のつうじあえる職人のいる店を見つけたとしても、相客が悪いと、料理の味まで落ちてしまうから不思議だ。小体《こてい》な店に大挙してやってきて店を社員食堂のようにしてしまい、ほかの客もいるのに大声でしゃべり、そのうえ長っ尻でいつまでも腰をあげないばかりか、他の客をはやく追い出そうとする気配さえ漂わせるサラリーマンたちがいる。そんなときは、きょうはツイてないなあと思い、早々にひきあげることになるのだが、店をあとにしたときの小生の表情はひどく憮然としたものであろう。そればかりではない。店をでたあとも、櫛比《しつぴ》する飲食店の|のれん《ヽヽヽ》のあちらこちらにクダをまきたくなる。味わい方ひとつ、感じ方ひとつで料理の味は変わる。料理は、店の雰囲気や、働いている人たちの気質や人柄、さらには相客まで喰って旨いのである。
† 小生が贔屓にしているお鮨屋さんは、赤坂の〔いとう〕である。この店の接待ぶりは自然で、まったく遺憾がない。ご主人の伊藤靖弘さんをはじめ、はたらいている人たちが皆、礼儀正しく、また朗らかである。
「雨の中をありがとうございます。さあ、どうぞ」
ご主人にこんなあいさつをされると、〔五鉄〕に入る平蔵の気分になって、つい長居をしたくなる。