[#ここから5字下げ]
「急《せ》かして、すまなかったな。ま、あがれ」
平蔵が、おまさを居間へあげたとき、妻女・久栄《ひさえ》が、冷えた麦茶《むぎちや》と手製の白玉《しらたま》を盆にのせてあらわれた。
「おそれ入りますでございます」
と、おまさは両手をつかえ、深ぶかと、あたまを下げた。いや、下げずにはいられない。
役目柄とはいえ、四百石の旗本の奥さまが、手ずから立ちはたらき、ことに、おまさへのこころづくしには格別のものがあった。
[#ここで字下げ終わり]
[#地付き]「むかしなじみ」
幼い頃、「この子は、ほんとに気のきかない子だよ」とか、「あの子は、ほんと、よく気のつく利発な子だね」という言葉を大人たちが口にしているのをよく耳にした。
「ビール、といわれたら、グラスも持っていくのが当然でしょ。まったく気がきかないんだから」とか、「おまえは腰が重いんだから……そんな面倒くさがりでどうする」などと親から叱られた記憶をもつ人は多いであろう。
そんなとき、子どもたちは親たちがこまごまと立ち働いているのを見て、「あ〜あ」とため息をつきながらも重い腰をあげるのだった。そうして、だんだんと重い腰を軽くして、「気のつく子」になっていったのだ。
おそらく平蔵の妻・久栄もそんなふうにして「気ばたらきのできる女」へと成長していったのであろう。
諸くん、やはり「いい女は一日にして成らず」なのだね。
いうまでもないが、久栄が身分のちがう密偵のおまさをもてなすのは、なんらかの見栄や下心や魂胆があってのことではない。あるいはまた、ひそかに善行を行なえばよい報いがあるという「陰徳陽報」にのっとっているのでもない。
「人間というのは、ふとした拍子に心が明るくなったり、生きる気力をとりもどすことがある」
ということを熟知していて、それで小まめに気をはたらかせているのだ。
おそらく久栄は、
「してもらうことよりも、してあげることの面白さをおぼえたほうが、人生をたのしく過ごせるものですよ」
と考えていたのであろう。
仏頂面して、ふてくされ、拗《す》ね者を気どり、しれしれと自己中心的になり、「してもらう」ことばかりをねだる人間になるよりも、「してあげる」人間になったほうが、よっぽど多くの笑顔で人生を彩ることができるという考えを久栄は胸に抱いていたようだ。ほんとうに立派である。
「してあげる喜びをもてた私の人生は素晴らしいものでした」
おそらく久栄はこんな言葉を残して死んでいったにちがいない。
なんという美しい心。アルプスの雪のように眩しい。
バカな女が、あくまでバカであるように、賢い女は、とことん賢い。
『論語』の最高徳目が「仁」であることを読者諸賢は知っていようが、久栄こそがその「仁」を獲得した人間であるように小生には思える。
「仁」とは、相手を思いやる気持ちであり、また他人の喜びを自分の喜びにできる心のことだ。他人がにっこりするのを見て、それを自分の喜びとする心踊りは、人間がもちうる究極の美徳であろう。