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この夜。平蔵はめずらしく興に乗り、一升ほどの酒をのんでしまい、清水門外の役宅へ帰るのがめんどうになってきて、
「彦や。今夜はここに泊る。何かあるといかぬから、お前すまねえが役宅へ知らせておいてくれ」
いうや、二階の、女密偵・おまさが寝泊りしている部屋へあがりこみ、ねむりこけてしまった。
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[#地付き]「寒月六間堀《かんげつろつけんぼり》」
きゅっとあおった冷酒《ひや》が喉をすべって五臓六腑に沁みわたる。眼が細くなり、すぼめた唇から舌鼓がこぼれ、やおら箸で塩辛をすくいとると、酒で湿っている舌のうえにそっと運んでいく。そしてまた、酒をちくとやる──。
こんな酒の飲み方をしている人を見ると、いかにも仲のよい恋人同士という感じがして、酒飲みっていいもんだなあという心持ちにさせられる。つくづく酒は嗜《たしな》むものであって、がぶ飲みするものではないなぁと思う。
だが、ご存じのとおり、酒飲みが皆このようなしみじみとした飲み方をするわけではない。飲めば飲むほど、心が澄んできて、憂いが取っ払われ、気分が高揚し、�天に口なし、酒をしていわしむ�みたいな心持ちになり、何かの伝道師になったり、説教したり、威張ったり、愚痴をこぼしたり、クダを巻いたり、強情になったり、わがままになったり、あげく泣いたり暴れたりして、非礼と恥辱の数々を尽くす。
たとえば──、焼酎のなかの梅干しの肉片が不規則にブラウン運動をするのを見つめながら、ひとしきり辞表を受理されなかったことを自慢したかと思ったら、
「おまえだけだよ、おれのことをわかってくれているのは」
と涙声でしんみり語ったりする。と、その舌の根も乾かぬうちに、
「てめえなんか人間じゃねえ。とっとと消え失せろ」
こんどは、相手の胸ぐらつかんで猛禽じみた形相になっている。このように一夜で二つ三つの合併症を患うのも酔っ払いの特徴である。こんなときである、酒というのは大衆の階級的自覚を妨げる現代の阿片であるとつくづく思うのは。
「ほろ酔いにまさる酔いはなし」というが、酒飲みの多くは、ほろ酔い状態でやめることができない。ついつい余分に飲みすぎてしまう。そして、魔がさすのだ。箍《たが》がはずれ、�ふつう�ではなくなり、周囲に迷惑をかけ、しまいには人間関係に支障をきたすようなことをしでかす。「酔っぱらいとは、自分では最高と思っているが、しらふの人間から見れば最低と思われている人間のことである」と思っておいたほうがよさそうだ。
酒は両刃《もろは》の剣《つるぎ》である。飲み方によって、天の美禄にもなるし狂い酒にもなる。格別の陶酔を与えてくれるときもあれば、このうえなく苦《にが》くまずい酒もある。同じ飲み物でも、そこがジュースや味噌汁とはちがうところだ。
鬼平の生みの親・池波正太郎は「けっこういけたくち」(豊子夫人)で、若いころなどは役者の島田正吾と二人で三升ほどの酒を飲んだこともあったそうだ。飲めば朗《ほが》らかになり、おしゃべりになった。だが、酒をいっさい口にしない日もあった。あるエッセイのなかで、こんなふうに語っている。
「苦しいとき、哀しいときの酒を、私は一滴ものまぬ。うれしいとき、たのしいときしかのまない」
これが池波正太郎の酒とのつき合い方であった。だから、自分にとっての酒は「百薬の長」といってよいであろう、とも述べている。賢いね、やっぱり。