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間もなく、平蔵は酔った足どりで〔山吹屋〕を出た。
一本杉神宮堂の前に待たせておいた駕籠《かご》へ乗り、役宅へもどりながらも、
(……どうも、気になる……)
で、あった。
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[#地付き]「山吹屋《やまぶきや》お勝《かつ》」
平蔵は何が気になったのか。
茶屋女のお勝の手首をつかんだときに見せた「彼女の間髪《かんはつ》をいれぬ反応の仕様《しよう》」が気になったのだ。それがどうしても腑に落ちない。ふつう、つかまれた手首を振り放そうとするなら、手前に引いて逃げようとするものだが、お勝は「かるく手首をひねりつつ、これを平蔵の鼻先へ突きあげるようにして、わけもなく外《はず》した」のだ。「なまなかの女にできる|仕わざ《ヽヽヽ》ではない」と看《み》たのである。
人を唸らせる「頭のいい人」というのがいる。といっても、どこそこの学校をでているというような頭のよさをいうのではない。ここでいう頭のよさとは、「気づく力」をもった頭のよさと解していただきたい。
引用した平蔵の例でもわかるように、平蔵は「気づく力」において群を抜いている。ひじょうに頭がシャープで、さまざまな関係の�行間�が読めるのだ。
「気づく力」の持ち主は、だいたいにおいて好奇心が旺盛であり、観察力があり、人を惹きつける(周囲を見渡してみるとよい。観察力のある人の話はきまって面白いから。逆にどんなに知識があっても、観察力のない人の話ほどつまらぬものはない)。
いざ何かをやってみようと思うとき、最初から難しいと思ったり、つまらぬと感じたらもうダメだ。「難しい」とか「つまらない」と感じた瞬間から、そのことはより難しくなっていくし、よりつまらなくなっていく。すると躰《からだ》と頭は萎縮しはじめ、もてる力を充分に発揮できずに終わってしまう。「気づく力」も、むろん発揮できない。
たとえばあるマンガを読む場合においてもそうだ。「これ、けっこう難解だよ」といわれたら、読みはじめるまえから、もう�疲れるマンガ�になってしまう。
いつの時代でも、「まずやってみる人間」と「文句ばかりいって、けっきょくはやらない人間」の二種類がいるのであろうが、たまたまあなたが後者に属するのであれば、「見た目は難しく思われるけれど、やってみれば意外に簡単かもしれない。同じ時間を割くのなら、とことん面白がってみよう。何かに気づくかも知れないし……」と考えてみることだ。何かことにあたるときは、とにかく好奇心をもって臨むこと。そして、できるだけそれを面白がってみること。「気づく力」は、好奇心の大きさと、それを面白がる力に比例している。
次に掲げるのは、晩年にさしかかった池波正太郎の日記である。
「明日は東和でフランス映画〔パッション〕の試写がある。
それを観てから銀座を歩くことを想《おも》うと、うれしくて、ベッドへ入っても子供のように眠れなくなった」(『池波正太郎の銀座日記〔全〕』新潮文庫)
年老いてもなお衰えぬ、この好奇心はどうだ。
読者よ、最近、「うれしくて、ベッドへ入っても子供のように眠れなくなった」ことがありましたか。