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「もっとも、若いころのわしは、他人《ひと》の何倍も男のたのしみを味わってきたことゆえ、いつ死んだとて、おもい残すことの、先ずは無いと申すことよ」
と、平蔵は傍《かたわら》の置棚《おきだな》から振鈴《ふりすず》を取って鳴らし、
「いまのわしは、若いころの罪ほろぼしをしているようなものじゃ」
つぶやくがごとくいった。
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[#地付き]「春《はる》の淡雪《あわゆき》」
中年になって、自分だけでなく、まわりの人も納得するような顔になっているにはどうしたらよいか(つまり若づくりなんかせずに、しっかり老いづくりをしているかどうかということ)。それには、勉強も仕事も、恋愛も遊びも、しかるべき時期に、しかるべきことを、しかるべきふうにやっておくことだ。
若い時期に、やるべきことをやらなかった男は、物腰や言動、生活信条や金遣い、服装や趣味に如実にあらわれる。どんなに着飾ろうとも、どんなに勇ましい言葉を吐こうとも、どこか貧相で、もの欲しげで、どうにも薄っぺら感を払拭《ふつしよく》できないでいる。はっきりいってしまえば、人間が安普請《やすぶしん》なのだ。
また、そうした男に限っていえば、小心な見栄坊が多く、説教とボヤきだけはいっぱしである。「失われた青春時代」への腹いせなのか、若い者同士が愉しくやっているのを見るだけで、もう不満なのである。
「おまえらは気楽でいいなあ。でもな、愉しいのはホント、いまのうちだけだぞ。人生はそんなに甘いもんじゃないからな。ひひひ」
他人の愉快がっている様《さま》にすぐさま水をさしたがるのだ。
「軟弱なんだよ、おまえらは。ほんとに情けねえなあ。おれなんかがさ、若い頃はさ、女なんてものは……」
態度はでかくても、心は小学生の尿道のように狭いのだ。しみじみ情けない。憎まれ口でしか、若者と対話できないのである。これは、若いころにやるべきことの入り口まで行ったけれど、中には入らなかった、あるいは入れなかった者がいう典型的な僻《ひが》みの台詞《セリフ》である。
また、こういう人間はつねに�いま�に不満があるため、たとえ過去がどんなにみすぼらしいものであっても、二つや三つはあるであろう「わが人生の快挙」を見つけ、「あのときのおれは、さすがだったね」とか、「あの頃がいちばん愉しかったよなあ」と過去をひたすら美化して語るのだ。虚栄や見栄も、度を過ぎると可愛げがない。
で、まわりはこういう人間をどう評するか。「成長を止めてしまったつまらない人間」とか、「みずからすすんで人生に白旗を掲げてしまった敗残者」と見なすであろう。
思いだしただけでも冷や汗が吹きでるような恥の数々も含め、若いうちにやるべきことをきちんと済ませてきた人間は、自分と同じような過ちを犯している若者を愛情をもった眼差しで見つめることができるし、また中年になればなったで、若い頃には知らなかった気ばらしを見つけて�いま�を積極的に愉しもうとしている。
こういう中年は「外柔内剛」の人が多く、どこぞのバカな中年のように「中年の魅力」とやらを語ったりもせず、つまり「中年の魅力」を語らない魅力があり、いまそこにある仕事に黙々と打ち込んでいるようだ(つい最近まで、こうした中年は数多くいたような気がするのだけど……)。