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「盗《つと》めの芸」
を重んじ、それがためには、おのれの欲望や快楽を二の次にして生きぬいてきた市兵衛だけに、
「わしの|まね《ヽヽ》ができる盗め人は、先ず、あるまい」
強い誇りをもっていた。
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[#地付き]「討《う》ち入《い》り市兵衛《いちべえ》」
巷間よく耳にする「人生は妥協の連続である」という言葉には、どこかしら敗北感が漂っている。
そもそも�妥協�という言葉は「相手に押し切られるかたちで譲歩する」という意味合いを含むが、あらゆる妥協が好ましくないものかといえば、むろんそうではない。また、かならずしも敗北や屈伏を意味するものでもない。
平蔵の生きた時代は、捨て子や孤児が巷にあふれていた時代である。裸身で世の中へ投げ出され、己れが身を曠野《こうや》に叩きつけて生きるほかなかった人がたくさんいた。
盗賊たちの多くもそうした境遇であったのだろう。どんなに強面《こわもて》であっても、よく見るとその横顔には妥協の痕があちこちに刻まれている。
彼らの人生は、一見すると傲岸不遜にして傍若無人だ。だが、そのふてぶてしい人生は、じつは数々の妥協がつくりあげたものでもあったのかもしれない。
くそっ、なめやがって。いつかこの仕返しはしてやるからな。おぼえてやがれ。こう思って、したい放題に悪行を重ねた盗賊なら枚挙にいとまがないであろう。
がしかし、「だからといって何をやってもいいというわけではない」とみずからを戒めた盗賊たちもまたいっぽうにはいたようだ。
一、盗まれて難儀するものには、手を出さぬこと。
一、盗《つと》めするとき、人を殺傷せぬこと。
一、女を手ごめにせぬこと。
自分が自分にする約束のことを「規矩《きく》」というが、真の盗賊たちはこの三ケ条を己れの規矩とした。市兵衛もその一人である。
おそらく市兵衛は、規矩と妥協についてこんなふうに思っていたにちがいない。
「人にはそれぞれ自分に課した掟、つまり規矩というものがある。それは何があっても守り抜かなくてはならない。なぜならそれを破ってしまえば、自分が自分でなくなるからだ。だが、その規矩を守りさえすれば、妥協などいくらしたってかまわない。要は、節操を曲げない柔軟さをもてということだ。�肉を切らせて骨を断つ�という言葉もあるではないか。己れに課した掟さえ破らなければ、妥協することなぞ、さしたる意味もないのだ。場合によっては塵《ちり》|あくた《ヽヽヽ》も同然である。枝葉末節など、どんどん他人にくれてやれ。自分の掟にしたがって、おおいに妥協するんだ。それが腹の据え方というものだ。妥協は敗北だといって騒ぎ立て、妥協それ自体がいけないなどと言い立てる輩《やから》は、そもそも自分の掟さえもっていない甘ったれにすぎないのだ」
妥協を短い言葉で一蹴するほど思いあがってはいけない。