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この日の長谷川平蔵は、いつもの微行巡回《びこうじゆんかい》の着ながし姿ではない。紋つきの羽織をつけ、袴《はかま》をはき、塗笠をかぶっている。忠吾は役宅を出る折に、左藤巴《ひだりふじどもえ》の長谷川家・定紋《じようもん》のついた紫色の布《ぬの》に包まれた箱のような物を持たされていた。
これは、見舞いの品であった。
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[#地付き]「白根《しらね》の万左衛門《まんざえもん》」
お世話になった人のお見舞いに出かける平蔵のいでたちである。いつもの着ながしではない。びしっとキメている。
「衣服の向こう側に裸体という実質を想定してはならない。衣服を剥いでも、現われてくるのはもうひとつの別の衣服なのである。衣服は身体という実体の外皮でもなければ、被膜でもない」と述べているのは鷲田清一だが(『モードの迷宮』中央公論社)、私なりに解釈していえば、衣服はそれを身につけている人の心を語っているのである。
相手のことを気遣って装うのが身なりの基本である。衣服は断じて自分だけのものではない。また、このことはマナー全般についてもいえることだが、マナーは本来、他人に不快感を与えないことをその要諦《ようてい》としている。
だから衣服の場合は不潔であってはならないし、商談や打ち合せを目的とする場合は着ていたものが印象に残らないのがよい(とくにサラリーマンは、仕事以外のところで目立つべきではない)。しかし、質実剛健の精神を尊ぶ人たちのあいだでは、きちんとした身なりを文弱の徒として軽蔑する風潮があり、とくに男が身なりに気を奪われるのは、男子の本懐に反すると信じている人も少なくない。また、若い人たちのあいだでは、粗雑やだらしなさを剛毅のあらわれと見なす傾向があり、それがまた流行のファッションとなっているようである。
小生にいわせれば、いずれも矮小《わいしよう》な利己主義のあらわれであり、ちょっとは他人のことを思いやったらどうだい、と小言をいいたくなる。身なりとは、相手に関心のあることを示すメッセージなのであり、その関心の強さが色気となるのである。
また、おしゃれというと、目立つことを念頭において、すぐに海外のブランド品で身を包むことを考える人がいるが、これも滑稽といわざるをえない。全体のバランスを失って一部だけが際立ってしまったり、衣服と体型が釣り合わずスーツのなかで体が泳いでしまったりしたのでは、お世辞にもおしゃれだとは言い難い。
おしゃれとマナーを融合させるのは難しいが、「優美は端正から生まれ、下品は規格がつくりだす」のが基本だと思っておけばよい。わかりにくいかな。もう少し言葉を尽くせば、身だしなみの美学は、相手に不快感を与えないことを旨とし、嫌味が漂わないように心がけ、さりげない気配りをするも統一感を損なわず、おしゃれのウンチクについてはいっさい口をださず、ひたすら無関心を装うところにある。「これみよがしのおしゃれ」を嫌うのがおしゃれの真髄なのである。
† 少年であれ、青年であれ、壮年であれ、老年であれ、男が大真面目な顔をしてドライヤーをかける図は、どうしてああもサマにならないのだろう。滑稽をとおり越して嫌悪すらおぼえる(小生は、誰にも見られないようにドライヤーをあてている)。この心理もおしゃれとおおいに関係があるような気がするのだが……。