[#ここから5字下げ]
その日の夕餉《ゆうげ》に、長谷川平蔵は佐嶋忠介と小林金弥の二与力を相伴《しようばん》させた。
〈中略〉
「のう、小林。彼奴《きやつ》めは一筋縄ではゆかぬのじゃ。ただ、わしはな、彼奴めの弱味を握ってしまっていたゆえ、頭があがらなくなってしまったのであろうよ。人は、だれにも弱味がある。千軍万馬の豪傑も大嫌いな鼠一匹に顔色を変えるとか……。今日の彼奴めも|それ《ヽヽ》じゃ」
[#ここで字下げ終わり]
[#地付き]「瓶割《かめわ》り小僧《こぞう》」
じっさいのところ、弱みをもたぬ人間がどこにいよう。
本人はそれといわず、また認めようとはしないものの、ひそかに弱みを抱えないような人は誰一人としていまい。人は皆それぞれに秘密の小箱を胸の奥に抱えているのだ。
ある者はそれが露呈することを異常なほどに恐れ、またある者はそれを他人に悟られまいとして知力の限りを尽くす。極端な言い方をすれば、人間はある意味で弱みに律せられた人生を送っているのではないか。弱点こそが人間の原点ではないか。
では、弱みはつねに人生の負の要因であるかといえば、かならずしもそうではない。なぜなら弱みは、他人の痛みに共感できる能力と強く結びついているからだ。
人は自分の弱みを自覚することで、生きることの畏怖を感じる。自分がちっぽけなとるにたらない存在として感じられ、自分ひとりでは生きていけないことを自覚するのだ。「弱みをもつ自分」を意識することは、「弱みをもつ他人」を認めることでもある。つまり、弱みとは他者の痛みに共感できる因子であり、人情の機微につうじる水脈なのだ。
逆をいえば、他人の弱みを追いかけ、拡大鏡をあてるようにしてその弱みを人前であげつらうことのできる人間は、自分に弱みがあることを認めることのできない弱い人間であり、人間らしさを失った驕慢《きようまん》な存在といってよい。
また、そうした自分の弱みを認めない人間は、弱さを糊塗《こと》しようとして、つねに虚勢を張っているため、心が休まるということがない。彼らは、四六時中「これさえ手に入れば」という目つきで獲物を狙っている。これが足りない、あれも足りない……これさえ手に入れば大丈夫なのに、これさえあれば安泰なのに……。「足るを知る」ということを知らないのだ。気に喰わないね、こういう欲深な人間は。
「これさえあれば」という心性はまた、「これさえなければ」という心性と強く結びつく。この二つの心性は見事にコインの表裏なのだ。物欲しげな卑しさの裏には、無慈悲で独善的な顔がある。こういう人はつねに力みかえっているから、ひどく余裕の感じられない、抜き差しならない状況に自分を追い込んでしまっている。
そのとき人はどうなるか。無慈悲な、共感能力に欠けた、非人間的な行動をとるようになる。場合によっては、他人のものを手に入れるために、他人という存在すら排除しようとする。そんな人品骨柄が、目指す強者としての人望を得られるであろうか。いわずもがなである。それどころか、もっとも遠ざけておきたい人間の典型となるであろう。自信をもつことも大切だが、弱みに律せられた人生もまた、その人の持ち味となり、大きな魅力にもなりうるのだという認識が必要である。小生の見るに、誠実といわれる人は「弱さを強く自覚した勁《つよ》さ」をもっている。
弱みとは、料理でいえば調味料のようなもので、適度であれば全体を引き立てる絶妙のスパイスになるが、強すぎると劣等感ばかりが目立つ「弱音ばかりを吐く人間」になってしまう。これもまたうっとうしい。