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「おまさが見えたと……よし、ここへ通せ」
長谷川平蔵は、居間で読書をしていたところであったが、すぐに酒の用意をさせ、おまさを迎えた。
「ずいぶんと陽に灼《や》けたものだな」
「もう、女ではございませんよ」
「いや、苦労をかけている」
「とんでもない……」
「ま、のめ」
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[#地付き]「女賊《おんなぞく》」
大学生数人とのんびり話す機会があった。雑談をしていて驚いたのは、彼らがクルマのことにひじょうに詳しいということと、みんな自動車免許をもっているということであった。そういえば、大学生が自動車免許をもっている時代なんだね。
「ところで、免許をとるのにいくらぐらいかかったの?」
「三十万円くらい。もっとかなあ」
さらに私を驚かせたのは、路上にでるために三十万円ものお金をかけるのに、社会にでるための本代は年間三千円にも満たないという事実であった。これでは内容貧困症を患い、社会の迷路にすぐさま入り込み、路頭に迷うのも当然である。
そこで小生、オジサンぶって、もうちょっと本を読まなくてはいけないよと助言してやると、うちのひとりが「書を捨て町へ出よう、っていうじゃないですか」とまぜかえしてきた。そういえば、ひと昔まえにも「書を捨てよ、町へ出よう」(※[#○にc、unicode24d2]寺山修司)という文言が流行ったが、大学生がそんな俗言を口にして威張っているようでは、私はバカです、といってるようなものではないか。本から得られる教養を丸腰でバカにするのは、ほんとうのバカがやるものである。そこで大学生たちに冗談口で、「では問題です。�関ヶ原の戦い�で戦ったのは誰と誰」って訊《き》いたら……聞いて驚け、うちのひとりが「それはですね、徳川家康とですね、福沢諭吉っ……」と、のたもうたのである。きみはほんとに大学生か。びっくりするようなことをいうなよ。激しい優越感に襲われてしまったではないか(正解は徳川家康と石田三成です)。人は、大学へ行ったからといって教養が身につくとか、年|長《た》けるにつれて賢くなるということはないようである。
ゆえに、「書を捨て町へ出よう」は正しくない。「書を読んで町へ出よう」が正しい。書は読んでから捨てるべきなのであって、大学生が本も読まずに町へ出るなど、自分はバカですと宣伝して歩いているようなものである。大学を卒業するまでに三十万円ほどのお金を本につぎ込めとはいわないが、せめて年間五万円ぐらいのお金は本に費やしていただきたい。読書をすすめる理由は、自分自身と他人がよくわかるというだけではない。社会における安全運転のしかたがわかるし、世の中のルールやマナーのことだって知ることができる。エンジンを取り替えたような爽快感に浸ることもできるし、社交上の巧みなギアチェンジも習得できる。
もちろん人生というもの、本以外のものからさまざまな知識や知恵を学ぶこともできようが、本がいちばんてっとりばやく、また安価ではなかろうか(もの書きはけっこう正直な人が多く、本のなかで自分の手の内を見せていることが多い)。周囲を見渡してみると、本好きな人には趣味人が多いが、言い換えれば、本を読まない人は世の中の数ある楽しみを、無知(無能ではない)であることによって知らないのではないか。だとしたら、ちょっと不幸だ。