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小紋染《こもんぞめ》、定紋付《じようもんつき》の衣服に黒の帯をしめた久栄が豊満な躰《からだ》を反《そ》り気味《ぎみ》にして、
「こなたに、近藤さまと申さるるお人が見えておられましょうか」
ものしずかに、茶店に入って問うや、
「はい、はい」
あらわれた茶店の老爺《ろうや》が、久栄を|ひと目《ヽヽヽ》見て、
「こちらでござります」
腰かけがならぶ土間の奥から、裏手の田圃《たんぼ》と木立に面した|離れ《ヽヽ》のようなところへ案内をした。
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[#地付き]「むかしの男《おとこ》」
衣服に関していうと、いまの日本の女性たちが愚かだなあと思うことが二つある。
ひとつは、母なるものの象徴というべき白い割烹着を消滅させつつあるということだ。
割烹着はとにかく実《じつ》にかなっている。魚をさばこうが天麩羅を揚げようが、上半身をすっぽり包み隠しているから衣服が汚れることはない。袖なしエプロンのように可愛さだけが売り物の新参者とはわけがちがうのだ。袖なしエプロンは、主婦にはなりたくないが、妻としては、あるいは大人の女としては認めてほしい、という厚かましい試みに失敗している典型的な例であろう。含羞《がんしゆう》だってある。女なるものが不可避的に発散しているエロスを、あの白い割烹着はつつましやかに隠している。照れが男の上質な色気であるように、含羞は女のたおやかなる色気である。
いまひとつは、老いも若きも和服を身につけたがらないということだ。袷《あわせ》、ひとえ、うすもの(絽《ろ》・紗《しや》・麻)、どれもてくてくと絶滅への道を歩んでいる。
土着的なもの、古めかしいものに目をつけて、それに新解釈を与えて遊ぶのはわが国の知識人の十八番《おはこ》だが、小生はそんな「珍しさを求めて異説を好む」知的遊戯はやらない。旧解釈が正しいと思うから、旧解釈を踏襲する。
おしゃれな人というのは、自分に似合うもの、似合わないものがきちんと見分けられる人のことをいうのだが、日本の女性がおしゃれに着飾ろうとしたら、小生、それは和服にとどめをさすと信じて疑わない。なぜというに、躰の薄い、胴長、短足の女性は和服がよく似合うからだ。和服こそ、日本人のコンプレックスをすべて隠してくれる「魔法の衣《ころも》」ではなかろうか。
欧米の女性たちが集《つど》うパーティーで日本人女性がドレスで勝負にでる例がままあるが、ドレスを身にまとったところで勝ち目はない。ドレスは上半身に厚みがないと貧弱になってしまうからだ。逆をいえば、背中に肉がついている女性に着物は似合わない(これ、卓見だと思うのですが)。欧米の女性にありがちな、いかつい肩、もりあがった背中は和服向きではない。着物はそもそも躰の大きなネコ背の人にはそぐわないのだ。さらに和装は、日本の女性の、女っぷりをあげてくれる。男の和装は、恰幅がよく腹がでているほどサマになるという�難点�があり、また年齢、容姿、髪型とも大いに関係してしまうため、男っぷりがあがるとはかならずしも言い切れないが、女性の場合は、年齢容姿を問わず、おおかたの女が品よく映る。
願わくば、初夏、日傘をさし絽を召した内股の女性と日に二回はすれちがってみたい。夕暮れどきは、涼しげな藍のゆかたを着た、くすくす笑いの似合う女性を眺めたい。ちょっと着くずれしているところがあればなおいい。涼しい眼尻《まなじり》を細めた乙女が「ごきげんよう」とかいってくれたらもっといい。
和服を着た女性は、日本をより好きにさせてくれる「風景の華」である。