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「長谷川さま。御役宅から沢田さまとおっしゃる方が、お見えになりましてございます」
「おお、来たか。連れの老爺《としより》がいたであろう。共にこれへ通せ」
「あの……」
と、女中が、
「沢田さま、おひとりでございますけれど……」
「何?」
平蔵は不審におもった。
嫌な予感がした。
「あの、お通しして、よろしゅうございましょうか?」
「む……かまわぬ、通せ」
渡り廊下へ去る女中を見送った長谷川平蔵が、傍《そば》にいるお妙へ、
「よし。ありがとうよ」
と、いった。
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[#地付き]「雲竜剣《うんりゆうけん》」
お妙は料理茶屋の、気だても容色もいい座敷女中で、平蔵の贔屓《ひいき》であった。引用は、そのお妙がこまごまと世話を焼いてくれたことに対して、平蔵が感謝の言葉を投げかけた場面である。「嫌な予感」がしても、感謝の言葉をかけることを忘れない平蔵は、やはり立派といわねばならない。
世界にはおびただしい数の言語があるが、どの言語においても、もっとも美しい言葉は「ありがとう」という感謝の言葉であろう。
忙しい現代人は、ともすると「ありがとう」の言葉を忘れがちである。なかには、だし惜しみをしているんじゃないかと思えるほどに「ありがとう」の五文字を発せられない人を見かける。「えっ」と、自動販売機のお釣りがでてこないときのような理不尽さを感じることさえある。
とりわけ、そこそこ出世して小さな権力を手に入れた人間はまわりがチヤホヤしてくれるので、まるで一人で大きくなったような顔つきになると同時に感謝の言葉も忘れていくようである。男盛りは自惚《うぬぼ》れ盛りでもある。
「そういわれれば、おれ、最近、人に頭さげてねえな」
いつぞや、アルマーニの背広についた目に見えぬゴミを丁寧に吹き飛ばしながら、こうのたもうた男がいた。男は、誇り高き貴顕の血筋ではない。中古車販売会社の若社長だ。「ボロは着てても心は錦」と歌ったのは水前寺清子だが、この男は「アルマーニは着ていても心はボロ雑巾」である。
だがいっぽう、功成り名を遂げたあとでも感謝の言葉を投げかけることを忘れない人格者もいる。頭をさげる回数が多いというだけではない。そうした人に限って、相手が誰であっても分け隔てなく、またパブロフの犬のヨダレよりもはやく「ありがとう」の言葉を笑顔を添えて投げかけるのだ。
さて、あなただったら、どちらの人間のそばにいたいと思うか。
問うまでもあるまい。
競争社会に身をおく現代人は、ともすると積極性や能動性ばかりに価値をおき、受け身になってものごとを受容するという情緒をないがしろにしがちである。しかしながら、考えてみれば、生命も境遇も友人もすべて授かったものである。自分で生みだしたものなどではけっしてない。
受け身になることを知らぬ人間は、感謝することの意味と大切さを知らぬまま、あくせく働いて不満なだけだろう。
「鬼」といわれて周囲から恐れられた平蔵であったが、部下であれ、密偵であれ、料理茶屋の座敷女中であれ、犬であれ、感謝の言葉をだし惜しみすることはなかった。
引用した「よし。ありがとうよ」という言葉の背後には、「いつなんどきといえども、感謝の気持ちを忘れなければ、大事のときでも大過なし」との教えがある。