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「いつまでも、子供では困るぞ。早う一人前《ひとりまえ》の男になれ」
奥庭にも、草《くさ》雲雀《ひばり》が鳴いていた。
さびしげに愛らしく、透《す》き通るような、その鳴き声を耳にしながら、細川峯太郎は、まだ両手をついたままだ。
得体の知れぬ寂寥感《せきりようかん》が、細川の胸の底から、|ひたひた《ヽヽヽヽ》とわきあがってきて、われ知らず泪がこぼれ落ちた。
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[#地付き]「草《くさ》雲雀《ひばり》」
「人は叱られながら育つものである」などというが、頭ではわかっても、いざ叱られてみると、なかなか素直な気持ちになれないのではないか(小生のささやかな経験と観察によれば、目や口と比べると、耳がいちばん素直じゃない)。
叱られ上手になるか、叱られ下手になるかは、人生の大きな分かれ目である。
じっさい同僚のまえで上司に怒鳴りつけられたというだけで気を病み、それを恨みにもって職を辞し、流浪の民となっていく一群の人たちがいる。いっぽう、未熟なうちは叱られることはあたりまえだと考え、叱られたことをプラスのバネにして、より積極果敢に仕事に取り組んでいく人たちがいる。断言するが、前者はぜったいにリーダーにはなれないし、後者はリーダーとして成功する可能性が高い。
人は口でいうほど、自分の欠点や短所を意識していないものだ。がしかし、叱られ叱られしているうちに、否応なしに自分の欠点や短所に気づかされていく。そしてそれが成長に欠かせぬ糧《かて》となり、また梃子《てこ》となる。
もう十年も前のことになるが、ある友人がこんな話をしてくれた。
「どうして叱られるってことをそんなに嫌がるのか俺にはわからんね。頼みもしないのに、まわりが俺の教育をやってくれるのだからむしろ有り難いと思わなくちゃ。叱られ上手は、人生で得をしているよ、いやホント。そのうえに給料までくれるんだから」
書くと何ともいやらしい感じが漂うが、やはりクレバーな考え方といわなくてはならない。ところが拙者《やつがれ》、そのとき彼に「おまえは利口だね。資本主義社会にぴったりの人間だよ」とおちょくったとか(本人に記憶はない)。人間のデキに雲泥の差がある。
彼はいま、ある会社の副社長になりおおせているのだが、いまも部下に対しては「チンケな自惚れをもつな。叱られ上手になれ」と、自身の処世訓をつねづね訓示しているようである。先日、そんな彼の部下たちと食事をする機会があった。いやあ、驚いた。彼らもまた叱られることを愉しんでいるようで、叱責をうけたことを慈愛を込めてしゃべるのである。
「本心からそう思っているの?」と私。
「はい」
「ほんとに?」
「ほんとです」
「皆さん、優等生だね。人間、なかなかそうはなれないよ。競争社会にはうってつけの人たちだなあ」
またいってしまった……。
叱られ上手の人は叱り上手になり、叱られ上手の人間を育てることにも長《た》けているようである。若い読者よ、神聖不可侵の自分をつくって、叱られることを忌避してはいけない。叱られようとする勇気をもつことも大切だ。明窓浄机より自戒をこめて。