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「おれの仕様《しよう》がいかぬとあれば、どうなとしたらよい。お上が、おれのすることを失敗と断じて腹を切れというなら、いつでも切ろう。世の中の仕組みが、おれに荒っぽい仕業《しわざ》をさせぬようになれば、いつでも引き下ろう。だが、いまのところ、一の悪のために十の善がほろびることは見のがせぬ。むかしのおれがことをいいたてるというのか……あは、はは……ばかも休み休みいえ。悪を知らぬものが悪を取りしまれるか」
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[#地付き]「蛇《へび》の眼《め》」
鬼の平蔵の、真情あふるる独白である。
失敗や挫折で落ち込んでいる読者諸氏よ、傷つくことばかり上手になってはいけない。
鬼平の生き方を見習って、
「失敗を知らぬものが、成功などできようものか」
とつぶやいてみてはどうか。
「ドジをふんでおかないと、いつかはボロがでるものだ」
と叫んでもよいであろう。
「人生の無病息災なんて、どれほどの価値があるというのだ」
こう解してもよい。
一般には、何ごとにせよ、失敗しないほうがよいとされる。が、つねに勝ってばかりの人は同じ戦法を用いる癖がつくうえに、自惚れの心が生じるから、いずれは乾坤一擲《けんこんいつてき》の一六《いちろく》勝負にでたところをガツンとやられ、決定的な敗北を喫することになる。
つまり人間は、それがどんな人間であっても、けっきょくは失敗をするものなのだ。
ところが、その失敗を失敗にとどまらせない知恵者がいる。
彼らは失敗から多くのことを学び、失敗を決定的な敗北に至らしめないのだ。
それどころか、致命的ではない程度の失敗を重ねることで、自戒と慎重を手に入れ、敗者にしかわからない成功の方程式を獲得するのである。
いや、あるいは次のような考え方をしているのかもしれない──そもそも失敗というものは、そこでやめてしまうから�失敗�になるのであって、成功するまでやめなければ、それは失敗とはならず、たんなる成功への一過程でしかなくなる。
幼い頃、「失敗は成功のもと」という俗言をよく耳にした。
長じては、ウィリアム・サローヤン(作家・アメリカ)の「有能な人間は、失敗から学ぶから有能なのである。成功から学ぶものなど、たかだか知れている」という箴言《しんげん》にほほうと感心した。
トマス・カーライル(思想家・イギリス)の「失敗の最たるものは、何ひとつ失敗を自覚しないことである」という警句を知ったのも同じ頃ではなかったか。
そしていまは引用部を「失敗を知らぬものが、成功などできようものか」と読みかえて、両方のこめかみあたりに貼っている。
『鬼平犯科帳』をはじめて読んだとき、とくに印象深かった文句は、ここに引いた「悪を知らぬものが悪を取りしまれるか」であった。ここには、放蕩無頼の泥沼から這いあがり、生きることに果敢に立ち向かった長谷川平蔵という男の、独立自尊の気魄《きはく》が立ちのぼっている。鬼の平蔵の、屈指の名文句である。